モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

【100de平和論】ヴォルテール著「寛容論」

寛容への祈り

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4人目の高橋源一郎さんが紹介する名著はヴォルテール著の「寛容論」
宗派対立を背景におきた実在する冤罪事件をもとにヴォルテールが記した人間の在り方。

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事件が起きた当時の社会はカトリックプロテスタントをフルボッコにする修羅の世界でした。
布生地を売って商売をしていたジャン・カラスには6人の子どもがいて、プロテスタントからカトリックに改宗したいのを良しとし、プロテスタントの家庭でありながらお手伝いさんもカトリックでした。
ジャン・カラスには寛容な心がありました。
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そんな一家の跡取り息子である長男マルクには、弁護士になりたいという夢がありました。
しかし、プロテスタントである彼を社会は許しません。
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1761年10月13日に事件は起こります。
一家はマルクの友人であるラヴェスを家に招いてパーリーを開催します(フランスとパーティをかけてみた)
そこで、長男マルクが中座。

ラヴェス「じゃ、僕そろそろ帰ります。ごちそうさまでした」
母「また、いらっしゃいね。あの子どこ行っちゃったのかしら」
カラス「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」

ラヴェスを見送る為に一階に降りると…

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マルクが自殺していたのです。

騒ぎを聞きつけた野次馬どもの中から
カトリックに改宗しようとしてから一家がマルクを殺したんだ!」という、なんの根拠もない罵声が飛びます。

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その証言を信じた無能な警察はジャン・カラスを逮捕し、拷問による自白を開始します。
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神よ、私の無実の証を立てて下さい。判事たちの過ちをお許し下さい。
ジャン・カラスは最後まで無実を訴え続けますが死刑になりました。

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裁判所は一家にも謎の基準で罰を与えました。
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ジャン・カラスは生贄とされたのでしょうか… なんとも後味が悪いですね。
ここで立ち上がったのがヴォルテールでした。
ジャン・カラスが人を殺すような人間ではないことや、マルクが自殺した際に一家は揃って食卓を囲んでいたこと。
事件を調べれば調べるほど、冤罪事件であることを確信するのでした。
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ヴォルテールは自らの人脈を生かして、権力者達に手紙を書き、ジャン・カラスの無罪を訴えました。その際に構築されたのがこの寛容論。

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ある一人の人間が別の人間に向かって、「私が信じているが、お前には信じられないことを信じるのだ。そうでなければお前の生命はないぞ」などとどうして言えるのか理解に苦しむ。
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不寛容の法はしたがって道理に反し、残忍なものである。
それは虎の法であり、しかもそれははなはだ恐ろしいのである。
虎が相手を八つ裂きにするのは、もっぱらこれを餌食とするためである。
そしてわれわれ人間のほうは、わずか数章節の文句のためにお互いに一人残らず殺してしまおうとしていたのである。
キリスト教徒がお互いに寛容でなければならないのを立証するには、ずば抜けた手腕や技巧を凝らした雄弁を必要としない。
さらに進んでわたしはあなたに、すべての人をわれわれの兄弟と言わねばならないと言おう。
なに、トルコ人が兄弟だと、シナ人、ユダヤ人、シャム人が兄弟だと君はいうのか。
いかにもその通り。われわれはみんな同じ父を持つ子供たち。同じ神の創造物ではなかろうか。

理神論

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高橋源一郎さんは、このヴォルテールの理神論を説明するにあたって、去年2015年11月13日に起こったパリ同時多発テロで妻を亡くした男性のメッセージを紹介していました。
せっかくなので全文を載せておきます。

 金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。
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翻って日本で同じことが起きた場合、共同体感情が個人の理性を上回って、報復の連鎖に走る可能性があると斉藤環さんは指摘しました。
たしかに宗教的な対立のない日本は、テロリストを生み出す背景を理解しにくい環境とも言えますね。
それを踏まえたうえで理解する姿勢が重要だと私は思います。

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高橋源一郎さんの平和論
「Pray and think」

ヴォルテールは全ての人間は神の創造物であり兄弟であると考えています。
存在の平等こそが平和に繋がるというのは今でこそ理解できますが、当時の宗派対立の中では誰にも声が届きません。
ヴォルテール自らもまた監獄に入れられます。
寛容論のラストで訴えた相手は人間ではなく、人間を作り出した「神」と呼ばれる存在に対してでした。


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私が訴えるのはもはや人類に対してではなく、それはあらゆる存在、あらゆる世界、あらゆる時代の神であられるあなたに向かってである。
なにとぞ、我々の本性と切り離しえない過ちの数々をあわれみを持ってごらんくださいますよう。
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これらの過ちがわれわれの難儀のもとになりませぬよう。
あなたはお互いに憎しみ合えとて、心を、またお互いに殺し合えとて、手をわれわれにお授けになったのではございません。
苦しい、つかの間の人生の重荷に耐えられるように、われわれがお互い同士助け合うようお計らいください。
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すべて滑稽なわれわれの慣習、それぞれ不備な法律、それぞれが馬鹿げているわれわれの見解。
われわれの目には違いがあるように見えても、あなたの目から見れば何ら変わるところないわれわれ各人の状態、
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それらのあいだにあるささやかな相違が、また「人間」と呼ばれる微小な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らい下さい。
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すべて人は兄弟であるのをみんなが思い出さんことを。 ヴォルテール



どの本もすごく内容が色濃く感じられました。
井原西鶴の本は商業倫理について書かれたものなので、直接、平和について言及するものではありませんが、地中海でブローデルが記したように、肥大化していく人間のエゴがもたらす富の集積は戦争を招く性質があるので、利益の再分配もまた平和を実現する間接的な手段であることは間違いないと思います。


現在、この世界では、85人の富豪が人口の半分にあたる人間が持つ資産と同程度の資産を持っていることが一昨年に明らかになっています。
人間のエゴを取り除くのは難しいと思います。
しかし、たった85人です。
より多くの人がこの問題を考えた時どうなるでしょうか?
本当の意味で民主主義が機能したらどうなるでしょうか?
85人の不道徳を否定できない理由はどこにあるのでしょうか。




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