モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

【100de名著】代表的日本人(ざっくりまとめ)

第1回から第3回までの流れをざっくり

いつもなら各パートずつに分けてまとめるところですが、写真を誤って消してしまったのでテヘペロ状態です。
なので、第1回から第3回までの流れをざっくりとまとめたいと思います。

その前に、ゲスト講師の若松英輔さんがサイトで紹介してますので、そちらを見てごらんよパトラッシュ

この本が取り上げているのは、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮の五人の生涯です。しかし、実際に読んでみると、彼らの歴史的業績や名言を連ねた、いわゆる偉人伝とは違うものであることに、すぐ気が付くと思います。じつは、この本の本当の主役は五人の人間ではなく、彼らを超えたものの存在なのです。
それを内村は「天」と書いています。人は、「天」に導かれるとき、どのように人生を切り拓き、苦悩や試練と向き合うことができるのか。また、そこで他者と時代と、どのように関係を作り上げてゆくことができるのかが、この本には活き活きと語られています。また、ここに登場する五人は、内村の先達であり、彼の鏡のような存在です。この本は他者の伝記のかたちをした内村鑑三の精神的自叙伝でもあるのです。
中略
五人の生涯は、内村のなかにある可能性であり、生きる力の象徴でもあります。私たちは必ずしも内村のように西郷を、日蓮を読む必要はありません。本に「正しい」読み方などないのです。私たちは内村の言葉をたよりに「私の西郷」「私の日蓮」を見つけてよいのです。さらにいえば、私たちはそれぞれ、内村とは全く別な「私の代表的日本人」を書くことすらできるはずです


第1回
森の中で思考する西郷隆盛は日本における預言者とも言える

✳︎写真ないので代わりに幕末志士たちのマリオカートのリンクを貼っておきます



第2回
経済は本来どのように在るべきか
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朗読は筧利夫さんです。
東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。
東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。
木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。
「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。
「ゆえに賢者は木を考えて実をえる、小人は実を考えて実をえない」
鷹山の産業改革の全体を通して、とくに優れている点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたことです。
当時の慣習には全然こだわらず、鷹山は自己に天から託された民を、大名も農夫も共に従わなければならない「人の道」に導こうと志しました。
経済=現実的な生活
道徳=かけがえのない人生


第3回
教育は本来どのように在るべきか
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学校もあり教師もいたが、それは諸君の大いなる西洋にみられ、今日わが国でも模倣しているような学校教育とは、まったくちがったものである。
まず第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。
修練を積めば生活費を稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。
私どもは、それを真の人、君子と称した。
英語でいうジェントルマンに近い。
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もともと個人に「真の人間」が備わっていると考えるからこそ、人間は平等であるとも言えますね。

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藤樹は母親の看病をする為に27歳の時に脱藩し、その後、漁師として働き、人々に学問を教えるようになります。

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学科目には科学と数学はありません。
中国の古典、歴史、作詩、書道が、そのころ教えられた授業科目のすべてでした。
ささやかで、目には見えない事業、学校教育とはそういうものであります。
真の学者とはどういう人か、藤樹の考えはこうです。
"学者"とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。
学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。
しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。
学識があるだけではただの人である。
無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。
学識はないが学者である。
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内村のこの考察を踏まえて伊集院はクイズ番組を例に挙げていました。
「クイズ番組にも、ただ解くだけのクイズと、解く楽しみのあるクイズがあって、楽しみのあるクイズを考える作家さんは尊敬しますね」と。

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叡智と真人はイコールで、見識を広げることによって、潜在的に備わっている叡智が目覚めていくと解釈できますね。
その為には人に感化を及ぼしていくことが必要不可欠であると。

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日蓮のパートは内村自身と日蓮の境遇が似ていることに着目。

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「私は、とるにたらぬ一介の僧侶であります」
日蓮はあるとき、ひとりの権力者を前にして語りました。
しかし法華教の弘布者としては釈尊の特使であります。
わが国の神々はすべて頭をたれて私を敬います。
日蓮は自らの生命を重くみませんでした。
だが、日本国民は、その法のにない手である日蓮を迫害しました。
これは日蓮にとり、言いようのない悲しみを与えました。
もし日蓮を発狂したとみるなら、それは最高の自尊心と区別のつかない崇高な精神でありました。
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そうした悲しみや孤独があったとしても、正しいと思う道ならば歩みを止めてはならない。
というところで第3回はお終い。


あと、100de名著のサイトに映像アニメーションを作っているクリエーターも特集されてます。
サルトル実存主義のアニメーションも担当したそうです。

こちらケシュさんのTwitterアカウント→ケシュ#203 (@Kesyuroom203) on Twitter