答えは自分の外にあるって、サルトルが言ってた
近頃、一気に気落ちするというような、虚無感に襲われる事がなくなった。
恐らく私は何カ所あるかは分からないセーブポイントの一つに到達したようなのだ。そのため同じ考えが頭の中でスパイラルを描くことが少なくなったと思われる。
ただ、問題が解決されたわけではない。ステージ1の敵キャラなんて、その後のどこにでも出てくることは珍しくないのだから。
今年、何年かぶりに初詣に行った。
「神などいない」という考えと、「賽銭箱に入れるなら募金箱に入れる」という考えが18歳の頃からあって、ずっと初詣なんて馬鹿げていると考えていたし、今でもその考え方に大きな変化はない。
そんな私がなぜ今年、初詣に行ったのかといえば、先ほど書いた通り「神は存在するか?」というありふれた疑問の答えが出たからだ。
私は神を大きく二つに分けることにした。
一つは、大自然に見られる「外なる神」。そしてもう一つは崇拝することによる「内なる神」である。ちなみに募金箱を優先する18歳の私が頭に浮かべた神は後者にあたる。
神の捉え方の一つとして「人間が人間を統率する為に作り出した」という考え方がある。
この「内なる神」をどうやら私は否定したいのだ。
一方で、人間よりも大きな力を持った「大自然」を「神」とすることを私は否定しない。この「外なる神」を人間がコントロールできるとは思わないからである。
例えば、世界中から工場をかき集めた中国が排気ガスにまみれて、人工降雨を降らしたところでそれは自然現象の利用であって、神の力を得たわけではない。
どう足掻いても、人間が物理的な性質を決定付けることができないからこそ、私は外なる神の存在を否定しないし、否定できないのだ。
そして、この「外なる神」の存在を利用したものが、人間をコントロールする為に生み出された「内なる神」であると位置づけられる。
信じることでしか存在を得られないものは、信じない人間が存在する時点で否定される。
それは「夢オチ」と同じであるし、個人個人が希望的観測を描けば当然に矛盾点が生まれる。だから、原理主義者の中で経典に対する解釈が異なることがある。
話が脱線したかに見えて連立させるぱてぃーん
よく、鬱病になりやすい人間の特徴の一つとして完全主義者が挙げられている。
何にでも真面目で真っ直ぐな性格だからこそ、周囲から頼られ、その反面、自分から誰かに相談を持ちかけることができずに一人で悩みを抱え込み鬱になるケースだ。
それは完全主義者なのか?
私は気づいてしまった。
本当の完全主義者はいかなる計画の変更にも対応できる人間を指すのであって、頭の中にしかない材料だけで組まれた計画は不完全だ。
症状を文字に書き表すなら「不完全であることに対して、人一倍不安になる」とすると分かりやすい。
ここでサルトル哲学の出番だ。
「不安だから鬱になる」=「不安は自由の証明である」=「人間は自由の刑に処せられている」
選択肢があるならば冷静に見極めればいいし、選択肢がないのであれば、外から引っ張ってくればいい。
答えは常に不完全だ。
自らの自由を未来に投資することは、自由の制限に他ならないが、その制限の先に未来があるとサルトルは説いた。