モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

社会を映す鏡

1人の少年が度重なる暴力を加えられ、1人の少年に殺された。
その過程は凄惨なものだった。
周囲の友人たちは日増しにボロボロになっていく彼を見て行動を起こした。
これ以上、暴力を加えないよう犯人に注意したのだ。
しかし、彼は殺されてしまった。
犯人の供述によれば自分がターゲットにされることを恐れたそうだが、その殺し合いの理論で言えば、だったらなぜ殺したのかが余計に理解できない。
事件の全貌を明らかにするには犯罪心理学などの知見が必要だろう。

この事件に対する社会の反応を見ると、驚くべきことに犯人と同様の殺し合いの理論を多くの人々が求めていることに気づく。
私はゾクっとしてしまった。

個人が主体的にどうしたらより良い社会生活を送ることができるのかを考えるのが民主主義国家であり、効率を求めた個人が考えることを放棄し、システムが人間を管理するのが社会主義国家であると私は考える。

「どうしたら殺人の発生率を下げることができるか?」という問題点について民主主義国家は発生率と再犯率に答えを求め、貧困の解消や、罪を理解させ再び社会生活を送ることができるように個人が努力する必要がある。
個人の努力による歩みはカメのように遅く、そのうえ他人を信頼する必要がある。能動的に他人と繋がる煩わしさにも対応しなければならない。
一方、社会主義国家はバグが発生しないように死刑というシステムを導入することで、恐怖による抑止で発生率を、合法的な殺人によって再犯率を下げる狙いがある。
ここには民主主義国家と比べて、殺人犯を社会生活に迎える為の努力を個人がする必要がない。
システムに異存するというのは自浄作用の欠落という問題を孕んでいる。

私は今日本という社会主義国家に居て、人々は殺人犯を真人間にすることを放棄している。
これからも同じことが繰り返されるだろう。
仮に「自分は死んでも構わない」というテロリストが現れたら『テロとの戦い』の名の下に、欧米を中心とした無人機による爆撃に参加することを望むだろう。
警察の権力拡大という点では、かつて治安維持法が存在したことは歴史が証明している。

社会を映す鏡の中に何が見えるのか人々が直視できる日は、まだまだ先の話に思う。