独裁者の作り方
"経済対策" "民族の団結"
「強いドイツを取り戻す」
「敵はユダヤ人」
ナチスは独裁を「決断できる政治」と言い換え、戦争の準備を「平和と安全の確保」と言い換えた。
「平和を愛すると共に勇敢な国民になってほしい」
「この道意外にない」
指導者の強い言葉に民衆は高揚した。
ヘルマン・ゲーリングはこう語るーー
「国民は指導者の意のままになる」
「それは簡単なことで、自分たちが外国から攻撃されていると説明するだけでいい。平和主義者には愛国心がなく、国家を危険にさらす人々だと批判すればいいだけのことだ。この方法はどこの国でも同じように通用する」
そして、国家緊急権の準備は整ったのだ。
国家緊急権を発動するには敵が必要だ。
さらなる議席数の拡大を図るナチは、その矛先を野党へと向ける。
ローラ・ディエールさんはこう証言する。
「父は社会民主党の集会に参加しました。しかし、二度と戻って来なかった」
「ナチは家の中を荒らしまわり、めちゃくちゃにしました」
「当時は(メディアも含めて)思っていることを口に出すことは許されなかった。ナチはそこを最も重視していました。ナチ政権について思っていることなど、誰も口にできませんでした」
ヴェラ・デーレ・テールマンさんの証言
「共産党の祖父が逮捕されたことで、母は学校でナチを支持していた女の子から殴られました。その後、祖母も母も逮捕されてしまいました」
「母は強制収容所に連行され、拷問やひどい暴行を受けました」
「憲法の条文によって独裁者に変わる可能性があるんです。この歴史を二度と繰り返してはいけません」
国家緊急権を後押ししたのは保守陣営と財界だったーー
当時の状況について、ドイツ連邦憲法裁判所の元判事だったディーター・グリム氏はこう語る。
「ヒトラーは国家緊急権で自由を廃止し、野党の息の根を止めました。それが民主主義と議会の終焉に繋がったのです」
「この憲法でまさか独裁者が誕生するなど思いもしなかった。でも、実際に独裁者は誕生した。それは想像を超える世界でした」
1933年3月23日
「全権委任法」が可決され、国会の審議を経ずに政府が立法から憲法改正の制定が可能となってしまった。
そして、ホロコーストは起きたのだ。
1945年4月。解放に向かったアメリカ軍はブーヘンヴェルト強制収容所内の光景を目の当たりにして言葉を失った。
数えきれない数の死体が散乱しており、モノのように積み上げられていた。
解放された強制収容所をワイマールの市民に見せることにした。
女性は始終泣き叫び、市民たちは口を揃えてこう言った。
「こんな事が起きてるなんて知らなかったんだ!」
骨と皮だけになりながらも生存していたユダヤ人はこう答えたーー
「いいや、あなたたちは知っていた」
自民党草案はナチスの手口
ミハエル・ドライアー教授の指摘
「この内容はワイマール憲法48条(国家緊急権)を思い起こさせます」
「一見読むと無害に見えますし、他国と同じような緊急事態の規則にも見えますが、特に(国会や憲法裁判所の)チェックが不十分に思えます」
「このような権利の集中には通常の法律よりも多くのチェックが必要です。議会からの厳しいチェックができないと悪用の危険性を与えることになります」
「なぜ一人の人間 首相に権限を集中しなければならないのか。首相が(立法や首長への指示など)直接介入することができ、さらに首相自身が一定の財政支出まで出来る」
「民主主義の基本は『法の支配』であって『人の支配』ではありません。人の支配は性善説が前提となっているが良い人ばかりではない。民主主義の創設者たちは人に対して懐疑的です。常に権力の悪用に不安を抱いているのです。権力者はいつの時代でも常にさらなる権力を求めるものです。東日本大震災に対応できた日本にどうして必要なのでしょうか」
個人的な感想は野暮なので省きます。以上。