モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「憂鬱たち/金原ひとみ」の感想

とめどない通り魔的な妄想


読む本をタイトルで決めている私にとって「憂鬱たち」というタイトルは直球だった。抑鬱を飼っている私は灰色の空の下を鉄の身体で歩いていることがある。
だから、少なからずのシンパシーを感じてしまったのだ。
作者の名前は「金原ひとみ」というらしい。どこかで聞いたような馬耳東風のG1レース。

「背中にドロップキック?」

違う、「蹴りたい背中」と「お父さんのバックドロップ」を混ぜるな危険。
私の中に金原ひとみ氏のボキャブラリーは無いと理解してからページをめくった。
すると、著者紹介ページに「蛇にピアス」と書かれていた。
知ってるけど知らない感がハンパではございやせん。

目次
  • デリラ
  • ミンク
  • デンマ
  • マンボ
  • ピアス
  • ゼイリ
  • ジビカ

【解説】日本文学内で唯一のウェッサイ 菊地成孔


もう、この時点で怪しい空気が漂っているのだけれども、最後に「菊地成孔」の文字が…笑
この間はお兄さんの本を読んだばかりだというのに、今回もたまたま遭遇。
このエンカウント率の高さはなんなんだろうか。どこぞのマーフィーの定理なのかどうかは不明。

感想はそうだな…うーん。
この本を一言で言い表すなら「とめどない通り魔的な妄想」と私は表現します。

7話が収録されていますが、登場人物は主人公の神田憂とヒゲダルマのカイズとイケメンのウツイのみです。

『精神科に行こうと思っているが、なかなか行くことのできない神田憂の日常と頭の中の非日常』があって、結局のところ『精神科には行けない』という天丼オチがあるギャグだと私は解釈しました。
ただ、読者の意識が神田憂の非日常的なピンク色の妄想に引っ張られると、たちまち官能小説になってしまうんですよね。

神田憂は常にストレスを感じていて、例えばそれが「容姿に対する劣等感」であれば「この世で一番汚い自分」に対する嘲笑は敵対心を生み出して攻撃的な視点で世界を見ますし、性的な欲求不満であれば通りすぎる全ての男と繋がる妄想を広げる。
「鬱」の部分もかなり忠実に再現されていて、現実世界では視野が狭く思い込みが激しいと評価されるであろう部分は、細かな変化に気づく洞察力の鋭い視点で描かれる。
自己不安定な人間の脳みその中で、明確な主観に基づいた思考で現実がスクロールされていく。
この意識を行ったり来たりしているのが面白いと思ってて、それを綺麗に表してるのが「ピアス」の一文。

ピアスの感動と興奮に舞い上がっている自分が鏡の中にいて、その自分の姿を見つめている内に、ああ何だこの下らないクソ女はという気持ちが芽生えていく。ピアスを入れた瞬間、私と私の中にいた一人の私が分離して、その一人は鏡の中へ潜り込み、そして私は鏡の中の私と絶縁して、結局また一人の私が欠けた一人の私になった。
これって、妄想が現実に負けた瞬間でもあるんですよね。リアリストでなければ、非日常的な部分を描けない。

これは「ジビカ」の一文です。
苦労すればするほど、人の気持ちなど考えられなくなるし、自分だけが辛いと思い込むし、周りは皆敵だと思い込む
この真面目な人ほど弱いものイジメに参加してクラスター化するような、人間の黒い部分がリアルなんですよ。
憂鬱になりますよね。精神科に行かなくても、神田憂というリアリストは原因を理解しているし、仮に「治す」という言葉を用いるのであれば、この黒い現実を自分が塗り替えることこそが非日常的で、黒い現実に順応していくことがリアリズム。
この妄想が現実に負けることが書かれたのが、先ほどの「ピアス」だと思ったわけです。

読み終わって、最後の菊地成孔さんの解説を読んだら分かんねーです。
金原さんが現在の我が国では本当に数少ない本物のラテン文学者の一人だと信じて疑いません。
〈中略〉
金原さんの見え方は数年の後に激変すると思います。日本の国文学という、ラテンの反極(織田作之助賞が、織田作之助の〈前時代の日本式ラテン〉という孤立のパワーから生じている抵抗の賞である事を願います)からの視点からでさえ、です。

とても良く分からない笑

が、しかし…
〈憂鬱〉を暴力的なマジックリアリズムで嘲笑するのはラテンの基本的なマナーですし〜
との記載があり、私の憂鬱における解釈は多少なりとも的を射ているのではないかと救われた次第でござやす。

憂鬱たち (文春文庫)

憂鬱たち (文春文庫)




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