モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

【100de名著】第四回 歎異抄 あなたを救うためだけに


人間にとって宗教とは?


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日本人の60%が無宗教を表明しているという数字がある。

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これについて伊集院さんは、僕もいわゆる無宗教ですけど、土足でおにぎりを踏めるかといったら踏めないですよ。これも宗教なんですか?と質問。

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そうしたものを「行為様式」と言って、行為様式こそ宗教の本質と考える人もいますと釈先生。

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歎異抄無宗教であったとしても、日常生活の中に垣間見る宗教と自分との接点を考える手がかりになると。


〈第十六条〉
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〈現代語訳〉
本願を信じて一筋に念仏する人にとって、「回心」、心を改めるということはただ一度あるものなのです。
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それは常日頃、本願他力の真実の教えを知らないで過ごしている人が阿弥陀仏の知恵を頂き、これまでのような心のままでは浄土に往生できないと知って、その自力の心を捨てて本願の働きにおまかせすることであり、これを「回心」というのです。
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信心が定まったら、浄土には阿弥陀仏のおはからいによって往生させて頂くのですから、私のはからいによるはずがないのです。
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自分がどれほど悪くても、かえってますます本願の働きの尊さを思わせて頂くのなら、その本願の働きをうけて自ずと安らかで落ち着いた心も起こるでしょう。
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浄土への往生については何事にもこざかしい考え方を挟まずに、ただほれぼれと阿弥陀仏の御恩が深いことをいつも思わせて頂くのがいいでしょう。そうすれば念仏も口をついて出て参ります。
これを「自然〈じねん〉」 自ずとそうなるということです。自分のはからいを交えないことを、自ずとそうなるというのです。
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「改心」は「心を改める」という意味で使われていますが、「回心」は「自力を捨てて阿弥陀仏にお任せする」という考え方です。

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その上。生涯にただ一回のような大転換。

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これを聞いて伊集院さん。
何がきっかけか分からないけど、それまで明確に「笑わせること」と「笑われること」は違うと思ってた自分が「いや、まてよ。これは傲慢だな」と考えるようになったと語りました。

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自分の力で「生きている」と思っていたところから「生かされている」ことに気づくと人間、世界の見方が変わる。

↑この解説を聞いて連想したんですけど、西遊記で自分が強い者であると思っていた孫悟空が、実はお釈迦様の掌の上にいたという話はまさにこれではないでしょうか?

歎異抄の後序にある親鸞法然の逸話

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ある時、善信(親鸞)と法然の弟子が議論をしていたら、親鸞が「この善信の信心も法然の御信心も同じです」と発言した。
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この一言に法然の弟子たちは詰め寄り、激おこ状態になる。
そして、親鸞はこう続けた。
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親鸞法然聖人は知恵も学識も広く、それについて私が同じであると言えば確かに間違いでしょう。しかし、浄土に往生させて頂く信心については少しも異なる事はありません。全く同じです」と。

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それでもまだ納得のいかない弟子たちは法然にチクることにしました。(笑)

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すると法然(源空)はこう諭すのでした。
「この源空の信心も如来から頂いた信心、善信坊の信心も如来から頂かれた信心です。だから全く同じ信心です。
別の信心を頂いておられる人は、万が一にもこの源空が往生する浄土には、万が一にも往生されることはありますまい」

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さらば、下衆どもよ by法然

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自力か他力かで「信心」に対する解釈も違うそうです。

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普通に「信心」というと、自分が信じるという考え方ですが、他力における解釈では「信じさせていただく心」を指し示す言葉として用いられるそうです。

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それゆえに親鸞は念仏(阿弥陀仏に任せるという表明)は称えるのではなく、阿弥陀仏が自分を呼ぶ声に耳を傾ける「聞名」という言葉を使ったそうです。


わたしのための物語

唯円は生前に親鸞が語っていたことを綴りました。

聖人のつねの仰せには、弥庵の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
〈現代語訳〉
阿弥陀仏が五劫もの長い間思いを巡らせてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただこの親鸞一人をお救い下さる為であった。
さればそれほどの業をもちける身にてあるけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。
思えばこの私はそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立って下さった阿弥陀仏の本願のなんと勿体無いことであろうか。
善悪のふたつ、総じてもつて存知ぜざるなり。
何が善で何が悪であるのか、そのどちらも私は全く知らない。
煩悩具足の凡夫、家宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
私どもはあらゆる煩悩を備えた凡夫(ぼんぷ)であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、全ては虚しく偽りであって、真実と言えるものは何一つない。
その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである。

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ここは色々な解釈ができると思うんですけど、個人的には今までを踏まえて「差別のない救済」が絶対であって、そこになぜ不平不満を抱くのかといえば『こんなに頑張った俺が助かるのは分かるが、何であんな奴が助かるんだよ!』という自力の視点がキーポイントだと思います。
そこで、他力の視点から見ると平等という概念でさえまだ自力にあって、とどのつまり阿弥陀仏がしている行為はただ一人の人間を救い続けているだけ。
これに尽きるんですよね。


物語と情報の違い

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少し話は逸れますが、4月からTBSラジオの「ゆうゆうワイド」の後番組を伊集院さんが始めることになって、その出演者の一人に選ばれた「ホームランなみち」さんは偶然パチスロの番組を見かけた伊集院さんが才能を見込んでオーディションに呼んだという背景があるんです。
それで、ホームランなみちさんは母子家庭でお母さんに応援されながらアイドル活動をやっていたそうなんです。
運命的なのはお母さんがタクシー運転手で、もう何年間も毎朝「ゆうゆうワイド」を聞いていて、その時間に新しく始まる番組から自分の娘の声が聞こえてくることになったこと。

ホームランなみちさんから「ぜったい誰か見ていてくれると信じて頑張ってきました。本当にありがとうございます」って、伊集院さんは言われたそうです。
まさに他力ですよね。

伊集院さんは阿弥陀仏だったんだなぁと笑

話を戻します。

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現代社会において宗教を情報として捉えている側面があって、いいとこ取りをして出来上がった宗教にはリミッターが存在しないので危ういと。
そういう意味で「歎異抄はリミッターを再確認する書」だと釈先生は解説していました。

宗教における差別性は選民思想、暴力性は他の宗教に対する攻撃だと私は解釈します。
例えば、オウム真理教の「お前が現世でこれ以上、悪事を働かないために殺す」という思考は歎異抄で完全に否定されますね。
海外に目をやると、アメリカとメキシコの国境に壁を作ると明言したドナルド・トランプローマ法王が否定したのは記憶に新しい。


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僕らにとっては番組が終わる時に言う「ありがとうございました」は念仏みたいなもんですね。と伊集院さんが言って終了。
ちゃんとオチをつけるあたりスゴイなぁ。

第四回が「人間にとって宗教とは何か」という、一見「歎異抄」から離れているかにみえるタイトルになったのには、こうした思いが背景になります。そして、ご覧いただくとわかっていただけたと思いますが、この回は、「親鸞一人がためなりけり」という言葉の、極めて現代的な読み解きになっているのです。信仰している、していないにかかわらず、「歎異抄」がもっている、普遍的な「思想書」としての側面を、番組を通して感じていただけたらうれしいです。

↑番組サイトが更新されていたのでリンク貼っておきます。
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