続 堕落論 一人辛く堕落し続ける日々
「続堕落論」では、「堕落」の意味を更に深めることで、「実存哲学」とでもいうべき思想へと自らの思想を昇華していく。いわく「堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している」。堕落は決して生やさしい道ではない。それは徹底して孤独で血みどろの生き方なのだ。この立場に立つならば、社会制度の改革や政治によって、人間同士の対立や人類の不幸を解決できるという楽観論は全て退けられる。政治や社会制度によって人間は救われない。人間の生活は、個の対立の中にしか存在しない。そんな人間の実相を見つめぬくものこそ「文学」であり、そこを見つめなければ人間の再生はありえない、と安吾は訴える。第二回は、「孤独」という言葉で「堕落」のもつ意味を深化させた安吾の思想を紐解き、真の人間再生の道とはどんなものかを考える。
人間の、又人性の正しい姿とはなんぞや。
欲するところを素直に欲し、厭なものを厭だと言う、要はただそれだけのことだ。
好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突き止め見つめることが先ず人間復活の第一の条件だ。
日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。
日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。
私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして現在の日本的思考が現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリに満ちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。
天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。
さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。先ず裸となり、とらわれたるタブーを捨て、己れの真実の声をもとめよ。
未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。
道義頽廃、混乱せよ。
血を流し、毒にまみれよ。
先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。
手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
カメラがスタジオに切り替わり、大事な部分にアンダーラインが。
第一回で「堕落」の意味は、与えられた価値観を捨て、自分で価値観を見出すことであると説明がありましたね。
それを踏まえて読むと、それまでの価値観である天皇制、武士道、貞節に従ったにも関わらず国民は困窮に陥った。
そこで坂口安吾は「命令に従う」だけの日本的思考から日本は堕落しろと言ったわけですね。
「堕落」と似た言葉で「パラダイムシフト」という言葉がありますが、苦しみにフォーカスすると、「パラダイムシフト」はAでもなくBでもなくCという選択肢もあったのか!という新しい発想に出会った喜びが包括されている気がするのですが、「堕落」 の場合は依存症からの脱却をさしているから苦しいのだと私は解釈しました。
ここは歎異抄における「他力」に通じますね。
磯野アナが堕落の難しさの例えで「今の時代に不倫してますなんて言えませんよね?」と伊集院さんにフリました。
「不倫したとして、謝れ!と言われたら謝りますよね。これは正しい堕落ではない…」
あのっ、ごめんなさいね。テレビの前のみなさん!それと嫁さん!
肯定してるわけじゃないよ!
と、カメラ目線でメッセージを送りました。笑
磯野アナは「不倫」と言いましたけど、坂口安吾が言っているのは「戦争未亡人は植え付けられた観念ではなく、自分で考えて新しい恋愛を始めなさい」という意味ですからね。
堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。
即ち堕落は常に孤独であり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然と死んでいく。
だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。
悪徳はつまらぬ道であるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。
キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。
何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。
悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。
この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。
先生の解説を聞いた伊集院さんは「自由とは不安定である」というサルトル言葉を思い出しました。
大久保先生によると、戦後のこの時期は坂口安吾やサルトルと同じ考えの人がたくさんいたそうです。
西洋文明では神により生きる道が示されて戦争へと向かったので、神ではなく、個人が意志を持って生きる必要があったと。
同じ時代の人間が違う言語で、同じ思想を言葉に残しているってすごいですよね。
孤独であり続けることの難しさについて、伊集院さんは現代の暮らしを例に「マンションの誰とも関わりあおうとしないのに、SNSをしたいんですよね」と挙げていました。
軍国主義と比べたらそれは「ソフトなカラクリ」であって、他人と価値観が合わなくていいんだと気づくことが大切だと先生の解説。
坂口安吾の生い立ち
明治39年10月20日生まれ。
出身地は新潟市。
父親は衆議院議員で安吾はビックダディ状態の五男として生を受けました。
父親は冷淡な性格であり仲が悪く、母親にも愛されていないと感じていたそうです。
学校では問題行動を起こし、授業を抜け出しては浜辺で過ごしていたそうです。
その気持ちを後にこう書き残しています。
私の魂は今と変わらぬ切ないものであった。
恐れ、恋うる切なさ、逃げ、高まりたい切なさ、十五の私も、四十の私も変わりはないのだ。
文章から変貌を遂げたい想いが伝わってきますね。そんな少年が変化せざるを得ない時代を生きたというドラマ。
新潟を追い出されて東京の学校に転校してからは仏教とインド哲学とフランス文学を学んだそうです。
我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。
人は無限に堕ちきれるほど、堅牢な精神にめぐまれていない。
何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。
そのカラクリをつくり、カラクリをくずし、そして人間はすすむ。
堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。
↑ちょっとこれ「つくり」と「くずし」で韻を踏んで、「カラクリ」と「堕落」は頭韻、あと「実相」と「必要」で韻を踏んでますよ!
前の部分だと「程度」と「堅牢」で踏んでます。
坂口安吾は意図して韻文を書いたのでしょうか?
それとも偶然ですか?
ラッパーですか?
アンゴぱねー。
太宰治に似てるけど真逆で興味深いですねと伊集院さん。
加えて、太宰の文章は弱さの中にナルシズムがあり、安吾の文章は厳しさの中に優しさがあると指摘。
言われてみると確かにコンプレックスとか薬物中毒とか似てる部分がありますね。
【画像あり】太宰治が中高生のときの授業中の落書きが黒歴史すぎる件 - NAVER まとめ
↑じゃあ、太宰治と同じように坂口安吾の落書きもあったりして…
今回のラストの「今いる状況を疑う」というフレーズを聞いて、私は宮崎駿さんを思い出してしまいました。
生きる感覚が研ぎ澄まされている人の文章は刺さりますよねぇ。
次回も面白そうです。