タウトに喧嘩を売る安吾
「堕落論」の文化論への応用ともいえるものが「日本文化私観」だ。安吾は、この本で、日本伝統文化の擁護者として金科玉条のように持ち出されるブルーノ・タウトの日本文化論を徹底的に批判する。タウトが伝統美の象徴として持ち出す桂離宮などは私たちの生活から遊離したものであり観念の遊戯にすぎない。今現在を生きるために欠かせない実用的なものこそ第一であり、その中にこそ真の美は生まれる、と安吾は説く。何の権威にも頼らない、暮らしに根ざした文化や美の復権を訴えるのだ。第三回は、「文化論」に展開された安吾の思想を紐解き、本来の「美の在り方」、「文化の在り方」を考えていく。
今回の「日本文化私感」は全面的にタウトdisる感じがたまらなく面白かったです。しかも、こちらのほうが堕落論よりも先に書かれていたということで、より筆者の考え方が読み取れる内容だと思いました。
安吾が否定したブルーノ・タウトとは一体どんな人物なのでしょうか?
番組の中では「都市を批判し伝統美を礼賛した」という紹介しかされていなかったのでウィキペディアで検索してみました。
革命への憧れをもっていたタウトは、1932年から1933年までソ連で活動するが、建築界の硬直性に直面し、結局ドイツに帰国する。ところが、その直前にドイツではナチスが政権を掌握。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道でウラジオストックに到達し、海路で日本の敦賀に上陸した。祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月、日本を訪れ、そのまま亡命した。
↑ウィキペディアは誰でも編集できる特性があるので、これが100%正しいとは言えません。
しかし、これが事実であったとして、家族をドイツに捨ててまで本気で逃げて日本に亡命したわけですから、日本を批判できませんよね。。。
これを頭に置きつつ、安吾のdisを読んでみましょう。朗読は今回も青木崇高さんです。
タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑みを嫌う上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。
茶の湯の方式など全然知らない代わりには、猥りに酔いしれることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一願を与えたこともない。
けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない。
タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。
我々は古代文化を見失っているかもしれぬが、日本を見失う筈はない。
日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。
この考え方は前回、触れられた実存主義にも通じますね。一言で表すならば「未来を決めるのは過去ではなく、現在に生きる私たち自身である」という意味で。
合わせて重要なのは、この考え方は個人が自分の力で気づかないと意味がない(これを堕落と言うわけですが)という点で、だから安吾は上辺だけしか見ずに価値観を提唱するタウトを批判しているのだと私は解釈しました。
この後、話は文化における「装飾美」と「機能美」についての考え方へと進みました。
伝統の美だの、日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。
我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が滅びない限り、我々の独自性話は健康なのである。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。
湾曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。
それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には根底的に相違がある。
我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑が甚だ浅薄でしかないのである。
何でしょうか…この地に足着いた考え方というか、写術的な洞察力が論理に反映された文章ですよね。
現代に生きる日本人がベースにあるから、これはある意味で普遍的な考え方にも感じます。
仮に自分がタウトの立場だったらどう反論します? 無理ゲーですよね笑
しかも「お前日本人じゃねーじゃん」的な軽い人種差別でなじられる感じも、何ともいやらしい。
タウトでショートムービー取れる気がするんですよねぇ。
『軽いノリでソ連に行ってしまったがために、ドイツを追われ遠路はるばる日本へ亡命! ヨイショで生かざるを得なくなったところを坂口安吾にダンガンロンパされるというコメディ映画「タウト」
ポレポレ東中野で単館ロードショー!』みたいな。確実にタウトファンから炎上させられる内容で。
話を戻しましょう。
先ほどの文章にあった「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」という一文が私には印象的でした。
というのも、これは国があって個人が居るという「国家主義」を否定している部分だと思うからです。今で言えば「市場経済」と「実体経済」に置き換えられますね。
1936年、日本を訪れ、相撲と歌舞伎に感心し、相撲を「バランスの芸術」と呼び、六代目尾上菊五郎に会って握手したが、その際、白粉が剥げないように気を遣ったため菊五郎を感心させている[1]。この時観た鏡獅子が、後の『美女と野獣』のメイクに影響したという説もある。日本に来て最初に衝撃を受けたのは、石けりをしている少女が地面にチョークで描いた円で、子供がこれほど正確で幾何学的な線を描く国は他にはない、と驚きを述べている[2]
ジャン・コクトーが来日した際に「なぜ日本人なのに着物を着ていないんだ?」と疑問を呈した際に、安吾はこちらのほうが動きやすいからと塩対応したそうな。
何となくのイメージで日本を語る外国人に対して、承認欲求が満たされた多くの日本人が迎合する様は確かに違和感がありますよね。
伊集院さんは日本の良いところを紹介する番組によく出させてもらっているので安吾の言葉耳が痛いと言い、磯野アナウンサーは食器洗浄機が出てきた時の社会の反応として「食器も手で洗えないのか?」という男性の意見を「立場の相違」の一例として挙げていました。
次のパートでは坂口安吾が肯定する人物である「豊臣秀吉」や建物などに焦点を当てます。
秀吉という人は、芸術に就て、どの程度の理解や、鑑賞力があったのだろう? そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差出口をしたのであろうか。
豊臣自身は工人ではなく、各々の個性を生かした筈なのに、彼の命じた芸術には実に一貫した性格があるのである。
それは人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にある限りは清濁合わせ呑むの概がある。
俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲劇を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術も亦そうである。まっとうでなければならぬ。
寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。若し、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。
京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動だにしない。日本の建築すら微動もしない。
必要ならば、新たに作ればいいのである。バラックで、結構だ。
人間は、ただ、人間をのみ恋す。
人間のない芸術など、有る筈がない。
「建築すら微動もしない」というのはタクトを意識したものだとして、「人間のみを恋す」はサルトルと同じように「ヒューマニズム」に対応してますね。
それと、安吾が示す「機能美」については欲求に忠実である生活を送った結果であり、意図して装飾を追加したものに美しさはないと。
これに関しては以前のダーウィンの進化論に似てる気がします。厳しい環境を生き抜くために淘汰され、機能美を持ったフォルムを見に宿す。人間の場合は個人が影響しあって、それが社会に繁栄されるわけですね。
僕は浜辺に休み、水に浮かぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには美しくするために加工した美しさが、一切ない。
美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない。
ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。
法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。
見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駆けて行く。
我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して、得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。
必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。
それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。
そうして、真に生活する限り、猿真似を羞じることはないのである。
それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
冒頭に説明がありましたけど、日本文化私感は堕落論よりも先に書かれたんですよね。「真実の生活」が堕落論における「戦後の闇市」に対応するのはとても興味深いです。
最後にひとつ、あえて坂口安吾に対する反論を書いてみたいと思います。
堕落論では天皇制は権力者が国民を統率する為のシステムであり、そこから堕落することを推奨していたわけですが、今回のキーポイントである「正当な要求」が「肥大化する欲求の肯定」であった場合、天皇制における価値観の人々が戦争を肯定したのとは違うにせよ、殺人の肯定を内包するのではないか?という疑問があります。
端的に言えば、法律から堕落し『殺したいから殺した』という人間を容認するかどうかです。人間は間違いを犯す生き物ですし、絶対的な正義などという価値観も危うい存在ですが、殺人欲求を容認してしまえば優れた論理的な解釈も言葉の否定によって意味を成さないと思うのです。
いやー。次回でラストですか。
楽しみですね。