今さっき100分deメディア論を見終わった。3月22日の放送記念日を前にメディアのあり方を話し合おうという企画。『レディオスターの悲劇』をBGMに伊集院さんが映っているのは面白いスタートでした。笑
まず最初に堤未果さんが紹介したのはウォルターリップマンの「世論」
第一次世界大戦の時代に米政府から文才を買われた同氏がプロパガンダの手法と危険性を啓蒙した一冊。新聞や映画という日常的に摂取する情報によりステレオタイプ(型に鉛を流し混んで造った判子)になっていく過程を描いている。
人間がステレオタイプを持つ理由については、経済性と心の安定を守るという二点が挙げられていた。
ある状況のステレオタイプ化された一面だけに注目すればよいという省力主義、これまで自分が学んだことがなかったものにも目を注ぐジャーナリストを見つけることの難しさ、読者をすばやくひきつけるべしという経済的要請、ニュースの記述が不充分だったり、不手際だったりして、期待がはずれた読者の不興をかつた場合の経済的危険。圧力はそうした各方面から加えられる。
18世紀の思想家達が考えた民主主義の前提はーー
- 大衆が情報を理性的に判断できる
- 公益を考える力がある
というものだったが、スポンサーや制作サイドにもステレオタイプは必ずあって、中立的なメディアはそもそもないと考えるべきだというのがリップマンの主張だと堤さんは解説した。
リップマンは第一次世界大戦で戦争の大義を国民に説明する広報機関を作るべきだと、当時のウィルソン大統領に進言したが、作られたのは「広報委員会(Committee of Public Information)」という、世論誘導を目的に徹底的なプロパガンダを行うものだった。
これを受けてリップマンはジャーナリスト活動を始める。
大衆は情緒で動かされており、それを放っておくと偏見や差別を生み出すとリップマンは指摘していたそうだ。
われわれの心が自らの主観主義をさらに深く自覚するようになるにつれて、われわれは自分の偏見がもたらす途方もない害や、気まぐれな残酷さをはっきりと見る。
偏見を打ち砕くことはわれわれの自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、その破壊に成功したときは、大きな安堵と快い誇りが与えられる。
与えられた自由の中に本来存在しうる自由はなく、偏見により欠けた視野の中に何が存在しうるのかを知ってこそ、自由の輪郭が分かるのだと私は思った。
中島岳志さんが選んだ一冊はエドワード・W・サイード「イスラム報道」
原題は「COVERING ISLAM」のcoverには「報道する」という意味と「隠蔽する」という二つの意味があり、この本が出版される二年前にイラン革命があり、米国から経済援助を受けながら脱イスラム化と近代政策を行った君主についての説明があった。
その時代の中ででサイードは分析をした。
このようなイスラムの紹介を通していつもわかるのは、世界を親米と反米(または親共と反共)に分ける傾向があること、政治的プロセスを報道したがらないこと、自民族中心または見当違い、あるいはその両方を含んだパターンや価値の押しつけ、まったくの誤解や繰り返し、細部を避け、真の展望を欠いていることなどである。
そのことは、われわれを世界に対して盲目にするのに役立つだけではなく、われわれ自身について、またいわゆる第三世界とわれわれが現実にどんな関係を持ってきたかについても、われわれの目をくもらせてしまうのである。
サイードは「オリエンタリズム」という考え方について研究を重ねた。これは美術における「東洋主義」を指す言葉であるが、「西洋にとって東洋はどのような存在なのか?」という問題が隠れていると指摘する。
オリエンタリズムとは、我々の世界と異なっていることが一目瞭然であるような(あるいは我々の世界にかわりうる新しい)世界を理解し、場合によっては支配し、操縦し、統合しようとさえする一定の意志または目的意識ーーを表現するものというよりはむしろーーそのものである。
簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである。
つまり「我々、理知的な西洋人が近代化によって失ったものが東洋にある」という考え方の前提が支配的である限り、たとえ礼賛していようとも否定すべきだと中島さんは解説した。
バイアスに自覚的にならなければ、メディア(騙す)と国民(騙され助長する)の共犯関係に気付けないという意見を聞いて、以前BPOに身を置いていた是枝監督も『徹底的に自覚的にならなければならない』と言っていたのを思い出してしまった。
【メディアのあり方について】ゲスト 映画監督 是枝裕和さん - モブトエキストラ
大澤真幸さんが選んだのは山本七平の「『空気』の研究」 クリスチャンの家庭に生まれ、太平洋戦でルソン島へ派兵され、帰国後は山本書店を経営しながら評論家となり、日本社会が支配される空気の真相へと迫った。
むしろ日本には『抗空気罪』という罪があり、これに反すると最も軽くて『村八分』刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。一種の『超能力』かもしれない。
スタジオでは『空気』の特徴として、絶対明示的に語られず自らが感じて解釈する点と、それぞれが考えている事と必ずしも一致しないという点が指摘された。また、空気が支配する社会の力学として『忖度』が挙げられた。この『空気』は反論、異論を含めて多様性を認めない雰囲気であると。
山本は研究の結果『臨在感的把握』という、日本人特有の物や記号の中にプラスαとして宿っている感じ方が原因ではないかと考えた。(この土地は縁起が悪い等)
また、本来同じ場所にいなければ成立しなかった空気の支配はメディアの登場により国民レベルに広げたと指摘された。
「不倫報道にみんなうんざりだと言うのに売れて加熱する。今度(小室哲哉さんの一件)は『空気が変わった』という理由で不倫報道の自粛がされるというワケの分からない事になっている」
と高橋源一郎さんが現代の一例を挙げた。
空気支配への対抗策は『水を差す』ことであって、メディアは通常性を取り戻すための機能になるべき存在であり、個人は常に常識を疑い続け、新しい水を探す必要があるとまとめられた。
高橋源一郎さんが選んだ一冊はジョージ・オーウェルの「1984」 言わずと知れたディストピア小説の登場。オーウェル自身がスペイン内戦で体験した共産党内の内ゲバを元に全体主義を批判する内容。当時よりも現在のほうが評価が高くなっていると高橋さんは言う。
朗読を担当していた滝藤賢一さんも黒のシャツとズボンで統一。番組最後の紹介される本としては十分すぎるラスボス感を放ちながら、その名前は呼ばれた『ビッグ・ブラザー』
ビッグ・ブラザーが支配しているとされる独裁国家オセアニア。この国は、党が与える映画や音楽で扇情され、無害な存在である『労働者階級』、党の権力維持の為に働く『党外郭』、権力を牛耳り国民を監視する『党中枢』という3つのカーストに分けられていた。
『平和省』は戦争関連全般
『愛情省』は思想警察による逮捕・拷問
『真理省』は文化芸術の検閲統制
『潤沢省』は慢性的な経済問題
ーーをそれぞれが担当していた。
一般党員である主人公ウィストン・スミスは、ロンドンに位置する真理省に勤め、党にとって都合の悪い過去の新聞記事の改ざんと抹消を日常業務としていた。党の発表した予言に矛盾する全ては記録に残される事は許されない。
党は国民に対して『二重思考』という、命令を受け入れて矛盾する事は忘れて信仰するという思考回路を醸成していった。党が常に考えることは『国民の思考を奪う為にはどうすればいいか?』であった。
入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認めること、打消し合う二つの意見を同時に報じ、その二つが矛盾することを知りながら、両方とも正しいと信じること。
忘れなければならないことは何であれ忘れ、そのうえで必要となればそれを記憶に引き戻し、そしてまた直ちにそれを忘れること。
かつて地球が太陽のまわりを回っていると信ずることは狂人のしるしだった。現在では、過去は変更不可能だと信じることがそのしるし。
最終的に、党は二足す二は五であると発表し、こちらもそれを信じなくてはならなくなるだろう。
自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。
現実の問題として、敗戦直後の日本における教育はまさにこの「二重思考」で、天皇陛下のために玉砕することはいい事だと教えられた子供たちは教科書を墨で黒く塗りつぶし、民主主義は良いものだと教えられた事が紹介された。
高橋さん「安倍総理が国会で『エンゲル係数が上がっていることは豊かになっている』と、本来とは真逆の主張をしたんです」
大澤さん「潤沢的主張ですね」
高橋さん「そうしたら当日にWikipediaが書き換えられたんですよ。昔の話ではなくて」
全文表示 | 「エンゲル係数」ウィキペディア書き換え合戦 首相答弁直後に...官邸の陰謀説まで : J-CASTニュース
ウィキ:「エンゲル係数」ページ凍結で編集不能 その訳は - 毎日新聞
物語の中で党が行っている「NewSpeek」は言葉の数を減らし、意味を減らすもので、Freeという言葉から自由の概念は無くなり、実用性のある解放という意味だけが残されると高橋さんは説明した。
高橋さん「ジョージ・オーウェルは極限の恐ろしさを書いているのに、『今はこれより酷い』と知りながらも恐怖を感じていないのだとすれば『何も感じない人間』という党の目標は達成されつつあり、我々がヤバイ」
この後、物語の中に「テレスクリーン」という監視装置が登場する。理性を保とうとしていたウィンストンでさえ、『二分間憎悪』という習慣により、大きな力と一体化する快感に洗脳されてしまう。スタジオでは現代における『インターネット』がこの役割をしているのではないかと話し合われた。
伊集院さん「いつからかテレビに毎分視聴率というものが出てきて、ある日、テレビの収録でうまくいかずにスタッフと企画を練り合わそうと話したんです。でも、誰も面白いと思っていないその企画は毎分視聴率が良いという理由で続いたんです。最終的にテレビは、心地のいい光の点滅になるんじゃないかとさえ思ってしまいます」
中島岳志さん「アンデルセン童話に『裸の王様』という物語がありますが、王様は裸だと言うのがメディアの役割だと思います。NHK会長の前任者である籾井氏は『政府が右と言うことを左とは言えないと』言いましたがそれは真逆の考え方です」
高橋源一郎さん「憎悪の反対はユーモアだと思います。以前、イギリスBBCにどうして放送終了時に国家を流さないんだと保守派議員から圧力がかけられたことがあって、これに対してBBCはセックス・ピストルズのGod Save the Queenを流したんです。女王をdisるバージョンですから、BBCすげーなぁと思いました」
堤未果さん「テレビと新聞は嘘をつくからネットだけでいいと言う若者が増えていますが、私は逆だと思います。テレビ・新聞にしかできない深掘りであったり、当事者に話を聞くことは重要です」
大澤真幸さん「答えが出る番組だけではなく、答えが出ないことを問うという事をマスメディアはやるべきだと思います」
番組の最後にウィストン・スミス・Wの問いかけが朗読された。
「未来へ、或いは過去へ、思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら孤独ではない時代へーー 真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて。画一の時代から 孤独の時代から ビッグブラザーの時代から 二重思考の時代から ごきげんよう」
私はこの存在もしない主人公の『ごきげんよう』という一言に感動した。
『こんにちは。自由な社会はいかがですか? あなたは元気ですか? さようなら』
たった一言にこれだけの意味があり、その表現の自由を守ろうとしたジョージ・オーウェルがより格好良く感じられた。
恐らく、この番組を作るスタッフ陣もまた並々ならぬ情熱を持ってやっているに違いない。(アニメーションも良かったなぁ)
何の契約もしてないのに公共の福祉を理由に料金を徴収するNHKはビッグブラザー的だけど、この番組は素晴らしい。
100分de名著は私が毎週見てる数少ない番組なので、圧力がかかろうとも現代における『形状記憶番組』として存在し続けてほしい。
追伸
ここであなたは『この記事に書いてあることは本当なのか?』と考えなければならない。
新しい水を探すとは面倒くさいがやらないと洗脳されてしまうディストピア。
トン!トン!トン!トン!ウィストン!(とくに意味は無い)
Eテレの「100分deメディア論」、放送を見ることができなかったのですが、私の籾井前会長批判をそのまま放送したそうで、驚くと共に、番組スタッフの覚悟に心を打たれました。素晴らしい番組だと思います。
— 中島岳志 (@nakajima1975) 2018年3月17日
たいへんな反響があったようですね。中身は厳しいNHK(を含むメディア)批判でもあったのに、その部分も削らず放映されたようです(「犬HK」なんて書き込みまでそのまま)。歴史の改ざんがテーマになっていたので改ざん後の収録ですかと質問がありましたがその前です。スタッフもすごい気迫でした https://t.co/cqf82NXXrt
— 高橋源一郎 (@takagengen) 2018年3月18日
「改ざん後」ではなく「改ざん発覚後」ですね。
— 高橋源一郎 (@takagengen) 2018年3月18日
ぼくがずっと、言論に関してもっとも大切なことは、「自分への批判を、それが正しいものなら受け入れる」ことだと思ってきました。同時に、100%間違った批判などなく、どんなひどい批判にも1%の真実はあるのだとも。批判を受けいれるのはとても難しいです。もちろん、これは自戒をこめてですが。
— 高橋源一郎 (@takagengen) 2018年3月18日