モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

映画「ひろしま」の感想

NHKドキュメンタリー - ETV特集「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」

毎年この季節になると、NHKで良質のドキュメンタリー番組が放送されます。
先日、Eテレで放送された「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」もその一つ。
原爆投下の後に、こんなにも大規模な撮影があった事に驚くと同時に『この世界の片隅に』よりも密度の濃い「爆心地の声」を反映させている事に感動しました。
ちなみに映画制作には、米国の大統領の後に続いてバンカーで転げ回っていたアマチュアゴルファーが嫌いな「ニッキョーソ!ニッキョーソ!」が後押ししたという背景があり、二度と生徒を戦地に送らないという誓いも込められているようです。
番組の中では両論併記として、「プロパガンダに子どもを使うのはどうなのか」という意見もありましたが、フラッシュバックしてしまって映画を直視できないサーロー節子さんの様子が、この映画の価値を物語っていると感じました。

 

で、Eテレさんときたら映画「ひろしま」を放送するというのだから凄い。

「録画するしかない!」
もちろん録画しましたが、リアルタイムで視聴しました。夜中に鐘の音が聞こえるなんて大晦日みたいですが、この鐘の音は一味も二味も違うものでした。

 

物語は原爆投下後の生活→原爆投下前の生活→人々はそこからどう生きたのか→どのような未来にしたいのかという構成でした。
ディザスタームービーのだいたいは「◯年◯日に◯◯が来る」と分かっている設定だから、そこに至るまでの経緯や人間模様がドラマが焦点になります。空襲の場合もラジオから放送が聞こえるので対処はできますが、原爆投下の場合は生物が反応できるスピードをゆうに超えているので、日常と非日常のグラデーションが全く無いのです。預言者でもない限り、心の準備なんてできません。

ですから、原爆投下を描く事ってかなり難しい事だと私は思います。それをドキュメンタリーではなく、一般市民の視点から描けるのは当事者だからこそできる事ですし、もっと言えば「その時にしかできない事をやった」という事だと思います。

 

例えば、ナチスの迫害を受けてアウシュビッツに送られた人々は、身ぐるみを剥がされても最期まで、自分の名前と出身地や生まれ育った記憶を抱いていました。一方で一瞬にして皮膚を剥がされ焼かれた人々は、たとえ自分の名前を覚えていたとしても伝える事ができないまま死んでいくのです。収容所においてはジワジワ蝕まれていく残酷さがあり、爆心地では時間のなさが無慈悲さに繋がっている。戦争は敵国の人間の形を破壊する事が目的であり、地雷や機銃掃射、艦砲射撃などの延長線上にある原子爆弾は、細胞単位で人間を破壊する兵器だと強く印象付けられます。
まるで命が溶けていくように、さっきまで人間だった人々は川の中で死体へと変わっていくのですが、モノクロでありながらも、こんなにリアルに感じるのは現象や物体の性質は現代でもほとんど変わっていないからだと思うのです。
そのシーンを見た私は『京都アニメーション放火事件』を思い出しました。

松竹、京都アニメーションの映画18作品の特集上映を決定 新宿ピカデリー、MOVIX京都で - ねとらぼ京都アニメーション放火事件の報道特別番組、MBSで8月18日深夜に放送 - コミックナタリー✳︎2019年8月18日 25:25よりMBSでドキュメンタリー放送

 

廃仏棄釈が進み、キリスト教も弾圧される画面の中の世界では、極限状態に陥った人々がしがみ付くのは「日常」と「天皇陛下」なのかと、少し現実と切り分けて見ていました。しかし、傷病者が運び込まれる病院のシーンを見た時に、災害が起きた時に避難所とされる体育館は同質の扱いだし(プライバシーは無く、ベッドもなく寝転がるという)、現代の日本人の精神構造もそれほど変わらないような気がしました。
また、原爆投下から間もない時期に作られた映画でありながら、画面の中の登場人物は「戦争がまた起こるのではないか?」と不安を口にしていました。ここから、復興の速度と風化の速度が等しいという事が伺えます。福島第一原発事故が無かったかのように、東京五輪に突き進む現代にも通じる点です。
この映画は原爆によってもたらされた、日常の破壊、黒い雨、後遺症、差別、孤児といった多くの問題を包括する構成になっています。これは啓蒙であると同時に『叫び』です。

本物の地獄を知っている人々による創作活動は、家やインフラといった目に見える復興とは別の『魂の復興』に思います。
これほど素晴らしい映画を放送してくれたEテレさんに感謝です。

(23:55っていう小さな番組でさえ面白いし、Eテレのクリエイター魂好きです)