モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「さがしもの/著 角田光代」の感想

ツノvs双璧&謝罪スタート

短編小説が読みたくて購入しました。
偶然手に取った本がその時読むべき本だった。という事がよくあると思いますが、ここしばらく私は読み終えた時にスタンディングオベーションしたくなるような本に巡り逢えてません。安部公房テッド・チャンの双璧が固く、なかなかベストを更新する感動から遠ざかっています。
できれば女性の作家さんの目線で書かれた作品で、風穴が開けられないものかと思い「ツノ」が生えてる角田光代さんをチョイスしました。
「そんな本の選びかた聞いた事ないわ!」とツッコミが入るかもしれません。私もそう思います。

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収録されているのはエッセイを含めた10編です。果たして角田光代さんはどれほど鋭利なツノでコボちゃん安部公房&テッド・チャン)」を深く突き刺し、投げ飛ばしてくれるのでしょうか!
先に謝っておきましょう。角田光代さんすいません。  orz

「旅する本」

主人公は東京で一人暮らしを始めた18歳。紙袋二つ分の本を持って、学生街にある古本屋を訪ねます。店の主人はその中から一冊の翻訳小説を手に取り「あんたこれ売っちゃうの?」と主人公に質問します。
その本は普通に手に入るものだったので主人公が不思議に思っていると、主人は「価値があるかどうかは自分で決めるものだよ」と言いました。
主人公は少し迷いながらも売る事に決め、好きなものを我慢して集めた本達は3,500円に姿を変えました。

P13
「どうする、やめる?」
主人は訊いた。
「いいえ、売ります」
私は答えた。三千五百円なら、今日のコンパ代くらいにはなるだろう。老人の指し出す紙幣と小銭を、私は重々しく受け取った。

この後、月日は流れて主人公は高校の卒業旅行でネパールに行き、ポカラの古本屋で偶然にも自分が売ったこの本と遭遇します。

P16〜17
私は学生街のあの本屋のことを主人のはじくそろばんと、売っていいのかと訊くしわがれた声を、一瞬にして思い出した。
〈中略〉
このアルファベットと花の絵は、高校生の私自身が描いたものだった。放課後のケーキを我慢してこの本を買った高校生の私は、友達に貸してと頼まれ、絶対返してね、大切な本なんだからねと言い、冗談交じりに自分のイニシャルと絵を描いたのだった。学生街の古本屋で売ったときはすっかり忘れていたが、高校生の記憶はポカラの古本屋で鮮明に思い出された。

主人公は暇つぶしに読もうとその本を購入し、持って帰国するつもりでしたが、荷物が重くなるのを理由に、カトマンズの路上で店を出しているバックパッカーに売ってしまいます。
そして月日は流れて、アイルランドの学生街にある古本屋で三度目の出逢いを果たします。主人公は帰国の途中で立ち寄るロンドンで売ろうとワクワクしながら、ビールを飲み干して物語は終わります。
ここからは私の感想になります。
まず主人公がこの本を大切に思っているのか、いないのかが良く分からないというのが大きい。「大切な本なんだからね」というセリフがあるのに、コンパ代のために売っているので疑問に思いました。仮に付き合いで仕方なく売ったとしても、それはその本よりもコンパの比重のほうが大きいという事ですよね。そして二度目の遭遇のシーンでは、自分の記憶と本の内容が合致していない事が書かれています。普通、小説でも映画でも何でも良いですが、自分の価値観を揺さぶるような作品と出逢った時って、その衝撃が記憶に焼き付けられると思うんです。でも、この主人公は忘れているうえに荷物が重くなるから売ってるんですよね。主人公と本の関係は、来日したお騒がせセレブが、可愛いからと犬や猫を購入して、帰りの空港で誰かにプレゼントして帰国するみたいな、一時的な興奮をもたらすアイテムでしかないのかなと思います。
三度目の遭遇の言動からして、主人公は本の内容ではなく、自分が売ったものが全く違う国にある事を面白いと感じているのだと読み取れます。これはまるで、自分が望む結果が出るまでコインを投入する課金ガチャとか、利益を出すためにやっているのに「人の役に立っている」と錯覚している転売ヤーや、恋人を山中に置き去りにして、少し離れた場所で見守るサディストのような遊びです。
結論として『旅する本』は、大切なものほど壊したくなってしまうクラッシャー小説でした。主人公の快楽中枢の扉を開けた古本屋の店主は名バイプレイヤーであり、一番の変態です。

「だれか」

主人公は24歳。恋人と訪れたタイの小さな島でマラリアに感染し、乾季の暑さの中、たった一枚の毛布にくるまってガタガタ震えているシーンから物語は始まります。

P29
医者の差し出す大きな錠剤を六粒、ぬるいコカ・コーラで飲み下した。オッケイノープロブレム、私がすべて飲み終えたのを確かめると、医者は言い、帰っていった。マラリア患者を見学にきていた人々も、それぞれの持ち場に戻るべく帰っていった。恋人は安心して、海に泳ぎに行った。

この後、主人公は酷い嘔吐と下痢に見舞われ、恋人がバンガローの食堂から持ってきた片岡義男星新一村上龍の本をボーッと眺めながら、どんな人がここまで持ってきたのか想像するのでした。

P37
二週間ばかりのち、痩せこけた私は、それでもなんとか歩けるようになり、旅を再開した。旅しているうち、どんどん体重は増え、帰国日前日には、ほぼもとどおりの丸顔に戻っていた。
久しぶりに帰った東京は、あわただしく、人が多く、素っ気ない町で、百円だった缶ジュースが百十円になっていた。大勢の見知らぬ人とすれ違いながら私は家に戻り、そして片岡義男をあの島に持ち込んだ男のことなど、忘れていた。

『旅する本』と内容がとても似ていて、「忘れていた。」で終わる点からして、主人公が同一人物であっても不思議じゃないなと思いました。
日本では手に取らない本に読み飽きて文字を眺めているシーンについては、星新一さんのファンである私からするとdisってるようにも読めました。片岡義男ファン、村上龍ファンが読んでもそう感じるかもしれません。
では『だれか』は星新一さんの作品よりも面白いのかといえば、残念ながらそうは思えません。異国の地でマラリアに感染し、現実なのか幻覚なのかよく分からない状態になりつつも、帰国した時は体重が戻り、知らない間に増税されていたという、不思議な話でもないエピソードトークですから「いやぁ、それは大変でしたね」以外の感想が浮かばないからです。
ちなみに星新一さんは製薬会社の御曹司だったので、やたら怪しげなカプセルや幻覚作用をもたらす噴霧器が登場します。そうしたギミックは、幻覚から覚めて、現実に戻った時の後味の悪さに繋がるわけですが、これは莫大な借金を抱えながらもSF小説を書いた星さんだからこそ出せる味です。
「星新一作品 登場人物索引」なんて本があるらしい、って絶対ああなってるだろ…と思ったら案の定だった - Togetter

最近では登場人物の辞典が注目され、大爆笑を誘いました。

「手紙」

P41〜42
海の家はすべて解体され、泳ぐ人もいない九月の海を眺めながら、ビールを飲み、本を読んだ。眠くなると部屋に戻って眠った。部屋にも波の音が聞こえてきた。しんしんとひとりだった。

本を読んでしまって飽きているというシチュエーションは『旅する本』『だれか』にも出てきたので「もういいかな…」と感じますが、この文章に関しては恋人とケンカした後のやさぐれた感じと、シーズンが過ぎて閑散とした情緒があって好きです。
その後主人公は、宿泊している河津の宿の部屋で、テレビ台に引き出しがある事に気付いて開けてみる。その中にリチャード・ブローディガンという詩人が、日本を訪れた時に感じた孤独や恋について書いた詩集があり、主人公は20歳を過ぎた時にこの本と出逢っていて、どハマりした事を思い出すのですが、35歳を過ぎた今読んでみると、幼稚で寂しがり屋で必要以上に孤独を叫んでいるように映るのです。
そのうち詩集の中に手紙が挟まっている事に気付きます。封筒から出して読んでみると、どこかの女が人生で一番凹んでいる時に寄り添ってくれた元恋人に宛てた未練タラッタラの手紙なのでした。

P51
ひょっとしてこの女、この手紙を書き終えて、死んだのではないか。そんなことを思っていた。死んだとしたら、どこで? まさか、ここで?

宿の女将さんが書いたのか?と考えているうちに、主人公は影響されて手紙を書いた女になりきってしまいます。その後、どんな気持ちだったのか想像したりして、主人公はケンカした恋人と仲直り。

P61

さようなら、バイバイ、ソーロング。私によく似た見知らぬ女に、そっとつぶやき目を閉じる。

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途中までは中島みゆきさんとスティングの『English Man In New York』が混ざった感じがして好きだったのですが、結局のところ本が、ケンカした恋人と仲直りをする道具になっているのでモヤモヤしました。
精神を同化させながらも切り離しているように感じるし、手紙を書いた女の身を案じているようでいて、見下している感じもしなくないんです。孤独をけなしてしているのか、孤独を愛しているのかもハッキリとは描かれていないのもモヤモヤの要因です。
個人的には主人公がハッピーエンドを迎えたとしても、途中で出てきた宿屋の女将さんルートを掘って欲しかったです。
「よくねむれましたか?」
「ええぐっすりと。料理も美味しかったです」
「それは良かった」
「ありがとうございました。また来ます」
そこで女将さんが近寄ってきて耳打ちした。
「手紙読んだでしょ?」
その直後、強烈な眠気に襲われた。
閑散としたビーチに女性一人分の穴が彫られたが、目撃者は誰もいなかった。
ーーみたいなホラー欲しいです。

「彼と私の本棚」

P70
おんなじの、売っちゃおうか。真新しい本棚に本を差し入れながら、ハナケンは言っていた。ブゴウスキーも高村薫山田風太郎も、まったく同じのが二冊ずつあるんだけど、これ一冊古本屋に売る? そうすれば、もう少し収納できるよ。どうせ本は果てしなく増え続けていくんだから。と、言った。
それには私も同意して、実際、私たちはおんなじ本の一冊だけーー傷んでいるほうーーを抜き出して、近所の古本屋に売りにいったのだ。三十冊以上はあったと思う。けれど売らなかった。言われた値段が、びっくりするほど安かったから。

自分と瓜二つの本棚を持っている彼氏(ハナケン)との別れを描いた作品です。
先ほどの『だれか』では、片岡義男村上龍星新一の本に読み飽きるという展開がありましたが、この作品の中にも同様の展開があります。
実際問題、読み終わった本を売るのは不自然な事ではありませんし、新しい持ち主の手に渡って楽しまれる事は本にとって幸せな事だと思います。しかし、倒置法を使ってまで強調されているのが「安かったから」ですから、これも作者に対して結構なdisだと思うんです。このあと本にまつわる回想シーンがありますが、私にはなんでこういう構成にしたのかよく分かりませんでした。内容も私には刺さりませんでした。

「不幸の種」

『不幸の種』は、親友に彼氏を寝取られたり、気晴らしに行った台湾旅行で足を骨折した主人公が占い師に頼った結果、元彼が読んでいた本がヤベーんじゃねぇか?と考えて、親友経由でその本を彼に渡したはずが、親友はその本を渡したら彼氏が主人公を思い出してしまうんじゃないかと思って所持し続けます。その結果、今度は親友に不幸が襲いかかってしまうという物語で、紆余曲折あったけど誰の物なのか分からない本があったからこそ人生経験を積んだし、歳を重ねるごとにネガティヴな事もポジティブに思えるから、不幸の種でも幸せの花を咲かす事ができるという最後でした。
ここまで読んだ作品の中では一番良かったです。ただ、展開が似ているので新鮮味がないのが残念で、もしこの作品が一番最初にあったなら、また違った味わいがあったと思います。

「引き出しの奥」

ずっと女子校に通っていた主人公が19歳を機に奔放な性生活を送り始め、そのうち身体目当ての男に嫌気が指し、伝説の古本を探し始めるという、ぶっ飛んだ物語でした。性描写に関してほとんど描かれていないのが不自然で、描かないのであればこの設定自体が必要だったのか疑問です。唯一描かれているシーンでは押し倒されているのでレイプに近い。仮にこの物語が愛を探す物語だったとしても、愛に目覚めるシーンでさえも薄味なので、私にはよく分かりませんでした。

「ミツザワ書店」

主人公は文芸雑誌の新人賞を受賞した27歳の青年です。その授賞式の中で記者から経歴や小説を書くきっかけとなった事は何なのか質問され、小さい頃に通っていたミツザワ書店の事を思い出します。

P146〜147
発売日になると、ぼくや姉は本屋にいく。本を読むおばあさんに声をかけ、雑誌名を告げる。おばあさんはあちらこちらひっくり返してそれを捜す。レジ台からいつも本がばらばらと落ちた。おばあさんが届いたばかりの雑誌をみつけ出すまでのあいだ、ぼくはいつも店内をじろじろと眺めまわした。
子どものころのぼくにとって、ミツザワ書店は世界図書館みたいなものだった。世界じゅうのありとあらゆる本がここにはあるんだと信じていた。

この主人公の回想シーンが私には刺さって仕方ありません。小さな書店ってどこに何の本があるのか分からなくて、見て回れるほど通路も広くないんですよね。地震が来たらドミノで圧死するんじゃないかみたいな。子どもの頃であれば、なおさら棚が高く見えるに違いなくて。今と違ってネット注文なんてありませんから、入荷したのか聞きに行って「あ〜まだ入荷してないね」みたいな。注文したはずなのに忘れ去られたり。そういう小さな書店ならではの雑な感じを思い出しました。
本の内容に話を戻しますが、ここまで読んできて主人公とミツザワ書店の関係がイマイチ薄い事が引っかかりました。それなのに新人賞を受賞した時に、本が出た喜びを一番最初に誰に伝えたいか?と訊かれて、ミツザワ書店のおばあさんに伝えたいと思っているのです。

P153
ミツザワ書店から本を勝手に持っていくのは、そう難しいことではなかった。
〈中略〉
もし、日本全国万引きしやすい店ベストテン、なんてものがあったとしたら、ミツザワ書店は間違いなくぶっちぎりで第一位だ。

主人公が中学、高校になると、いちいち店主に声をかけないと本が買えないスタイルがめんどくさくなり、大型書店に行くようになっていました。そんなある日、母親に頼まれた本を買うためミツザワ書店を訪れた時に箱入りの分厚い本に目が止まり、まるで一目惚れをしたかのようにその長編小説に魅了されてしまいます。価格を見ると1万円のジャパネットプライス。(どこがだ) 主人公はどうにか1万円を貯めようと決意するのですが、なかなか貯まらず、ミツザワ書店に足を運んではその本が誰かに買われてしまわないように、積まれた本の下のほうに隠すというのを繰り返します。
ある日、とうとうそれが我慢できなくなった主人公はザルセキュリティの店内から1万円の本を盗んでしまうのでした。

P155〜156
自分にはとうてい不釣り合いな、小説というものを書いてみようと思ったのは、一昨年の暮れだ。なぜなのか、うまく説明できない。
〈中略〉
年末も新年も帰省せず、アパートに閉じこもって、書いては消し、書いては消し、まるで水に映った月を掬うようにして書き続け、三カ月半の後、ぼくの言葉はまとまった枚数になった。それが小説といえるのかいえないのかさえもわからないほど、ぼくは小説というものを知らなかった。せっかくこれだけ書いたんだから、という貧乏根性だけで応募したのだった。

主人公はミツザワ書店を避けるようになり、18歳になると進学のために都心に出て、盗んだ本はそのままにしていました。(トンズラ)やがてその本がきっかけで小説を書く気持ちが芽生えたわけですが、この罪悪感があるからこそ新人賞授賞のスピーチで「ミツザワ書店のおばあさんに伝えたいです!」と言えなかったのです。
そして新人賞を受賞した主人公は、懺悔するために1万円を持って数年ぶりにミツザワ書店を訪れるのでした。

P161〜162
「じつはね、あなただけじゃないの。この町に住んでいた子どもの何人かは、うちから本を持ってってると思うわよ。祖母の具合が悪くなって、それで私たち、同居するために引っ越してきたんだけど、はじめてあの店を見て、私だって驚いちゃった。持ってけ泥棒っていってるような本屋じゃない。」
〈中略〉
「祖母が生きているあいだも、何人かいたわ。じつは数年前、これこれこういう本を盗んでしまった、って。もちろん、そんな人ばかりじゃないだろうけどね、そんな人がいたのもたしかよ。あなたみたいにね」それから女の人はふとぼくを見て、
「作家になった人というのははじめてだけれど」と思いついたようにつけ足した。

お正月の静まり返った空気のなか、主人公は久しぶりに見る郷里の町並みを記憶と照らし合わせながらミツザワ書店を目指します。お店はシャッターが閉まっていたので裏手に回り、家のチャイムを鳴らすとお孫さんが家の中に通してくれて、すでにお婆さんが他界した事や、本当に本が好きな人だった事、盗人が多くいた事を話してくれたのでした。そしてお孫さんは店の中を案内してくれて、ミツザワ書店を町の人のためのスペースにしたいと口にします。それを聞いた主人公はミツザワ書店に自分のコーナーができるぐらい頑張って小説を書こうと決意して、物語は幕を閉じるのです。
なんて心温まる万引き小説なんでしょうか。(そんなジャンルないわ)是枝監督に教えてあげたいですね。
『引き出しの奥』では感情の繋がりがイマイチ分かりにくかったですが、この作品ではキチンと描かれています。時限爆弾を抱えながらコソコソ生きる感じは押見修造さんの『悪の華』に出てくる主人公に似ている気がしました。ただ、『ミツザワ書店』の主人公は『悪の華』の主人公(a.k.a.クソムシ)みたいな変態性だったり、その時限爆弾の残り時間を早めるような女の子も出て来ないので老若男女楽しめるマイルドな味わいになっています。
ここまで読んできた7作品の中でいうと優勝です。

「さがしもの」

P171〜172
「そのこと、だれにも言うんじゃないよ。あんたのおかあさんにも、おばさんたちにも。あんたひとりでさがしておくれ」
おばあちゃんの息は不思議なにおいがした。いいにおいかくさいにおいかと言われれば後者なんだけれど、嗅いだことのない種類のものだった。そのにおいを嗅ぐと、なぜか、泣いている母を思い出すのだった。

主人公が中学2年の時に祖母が入院。物語はその数週間後から始まります。泣いた姿なんて見せたことのない母が涙を流して、祖母の死期が近い事を知らせました。それを知ってから主人公は毎日、祖母のお見舞いに行くことにします。
ある日、祖母から一冊の本を買ってきて欲しいと頼まれ、大型書店で著者と本のタイトルを店員に話しますが、該当する作品は見当たらないと言われてしまいます。
「ZINEかな? 薄い本かな?」と気になるスタートですね。上記引用文の口臭に関する部分が意味深で、薬の匂いが混ざっているのだろうかとか、或いはガンの匂いを嗅ぎ分ける犬のようにも解釈できて、良い文章だなと感じました。

P181
「ぎょえ、じゃないよまったく。本はどうなったのさ」

祖母と母との確執、修羅場があった後、おばあちゃんはポックリと天に召されてしまいます。主人公は本を探し出す事ができないまま、夜の桜を眺めているとおばあちゃんが化けて出てくる超展開。それでも主人公は冷静に、自分で探したらどうなんだと言いますが、おばあちゃんは「面倒な事は生きてる人間のやる事だよ」とパシらせる気満々です。
高校3年生になるまでの間おばあちゃんが出現し続け、友達ができたり、恋人ができたり、フラれたり、受験生になった矢先に両親が離婚。その後、おばあちゃんが化けて出る事はなくなりますが、大学三年生になってようやくその絶版の幻書にめぐり合います。

P189〜191

このなかに、『定食屋の娘』という短いエッセイがある。太平洋戦争がはじまるずっと前の話らしい。

〈中略〉

そうして私は思ったのだ。この定食屋の娘は、おばあちゃんに違いないと。おばあちゃんの両親は、父親が戦争で亡くなるまで実際定食屋を営んでいたらしい。

その本の著者は日本では無名の画家で、40歳になってフランスに渡ってようやく芽が出たが10年もしない間に亡くなってしまいます。そのエッセイの中に若かりし頃の祖母が登場していて、画家は祖母を見たいがために通っていたというのです。
つまり、この本は祖母にとってノスタルジーの塊で、死ぬ前にどうしても読みたかったというのが祖母の頼み事の真相でした。この経験を活かして主人公はブックコンシェルジェ(コンシェルジュではなくジェって書いてあるの)になって物語は終わります。
おばあちゃんが幽霊になって現れたシーンで『花田少年史』が頭に浮かんだのですが、おばあちゃんの幽霊とのやりとりが書かれているのはその一瞬だけで、あまり幽霊の必要性を感じませんでした。幽霊になってまでその本が欲しかったのだと強調する役割があったとしても、両親が離婚してからは出現していないので、この筋には無理があるように思います。見舞いにも来なかった主人公の父親が嫌いだったのでは?と想像できますが本と関係がありませんからね。ちょっと不完全燃焼に感じました。
あと、フランスに渡った画家が誰なのか気になって、頭の中に浮かんだ藤田嗣治を調べてみましたが「40歳になってから」というのが合わないので違う…。
果たしてその画家のモデルは誰なのか私には分かりません。

「初バレンタイン」

中原千絵子(23歳)と田宮滋(21歳)のイチャラブ小説と見せかけて、初のバレンタインでふと立ち寄ったアクセサリー店で店員に20万円近い指輪を買わされてしまい田宮の財布が深刻なダメージを受け、さらに中原は田宮と別れて本の趣味があう藤咲健二と結婚してめでたし、めでたしという話でした。
うーん。とくに感想はありません。

「あとがきエッセイ 交友遍歴」

P221〜223

小学校二年生のとき、はじめてつまらないと思う本に出合った。そのとき私は入院していた。その本は、入院していた私におばが持ってきてくれたものだった。本ならばなんだってうれしかったから、もらってすぐに読んだのだが、なんだかさっぱりわからない。私にとって、つまらない、は、イコール理解できない、だった。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』である。大判の、カラーの本だった。
最後まで読み、つまらないと結論を出した私はその本を放って、ほかの本を読み続けた。
〈中略〉
そうして高校二年生のとき、仲良しだった友達が、一冊の本をくれた。ちいさなサイズの、絵の入った本だった。
私はそれを一気に読み、すごい、と思った。
〈中略〉
それは、小学校二年生の私が、病院のベッドでおもしろくないと投げ出した、『星の王子さま』だったのである。

このエッセイには角田光代さんの恋愛観と、これまでの本との出会いについて綴られています。小学校二年生の時には理解できずに面白くなかった『星の王子さま』を高校二年生の時に読んだらどハマりしたというエピソードには、おそらく多くの読書家が共感している事でしょう。レベルが上がって、以前は開かなかった扉が開く面白さや、知識が重層化してくる中でこれまでの景色が違って見えるというのは読書の醍醐味だと私も思います。
角田さんはこの経験から、面白くない本はなくて、あくまで自分が理解できないか相性が合わないだけなのだと結論づけています。
確かに、そうかもしれません。でも、昨今はヘイト本であったり、著名な作家がWikipediaを元に小説を書くという問題がありますから、そうしたレアケースは例外でしょう。(フィクションなら問題ないけど)
このエッセイを読んでいて唯一引っかかったのが前半に書かれている「私は別れた恋人とほとんどの場合友達になる」という一文です。酒の席で元彼や元彼の悪口を言ってゲラゲラ笑う人間よりもマシだし、未練がないからこそ友達になれるのだというのも納得できなくもありません。
元カレ、元カノと友人関係を築ける人はナルシストでサイコパスな傾向があることが判明(米研究) : カラパイア
しかし、カラパイアを読み漁った経験がある私の脳みそが、「一番ヤバいパスはスルーパスでもノールックパスでも、オフロードパスでもなく『サイコパス』だ!」と叫ぶのです。人を操りたくて仕方なく、自信満々で嘘をつき、罪悪感のかけらもない人間性は恐ろしいです。

2019年の今現在、哲学も人権もないようなこの国では、嘘と守銭奴と神秘思想に支配されています。政治家やら大企業のトップの腐敗が当たり前で、自浄作用もなく腐り果ててるのが現状です。人との付き合い方は人それぞれでしょうが、権力者が独立性を失ってズブズブの関係になるというのは腐敗を促進させるに違いありません。わかりやすいのが、消費税増税を訴えながら自分達は据え置き税率8%を適用してもらう事で政府に懐柔された新聞社、それと誘致活動に不正があった可能性がある東京五輪のスポンサーになったマスコミ各社。こんな状態で権力の監視などできるわけありませんし、なんなら共犯者と言われても仕方ありません。
自由な恋愛観を持つカップルと、権力者のケツを舐めて甘い汁を啜る汚い人間達とを並べた時に全く別の存在に見えますが、実は、共通の目的に対して連帯しようとする働きは同じなのではないかと思うのです。落語家の立川談志師匠で言うところの「人間なんて、食って、寝て、ヤッて終わりだよ」です。
そんなロクでもない私たちを、ロクでもないと認識させてくれるのが本であり、別の世界へと誘って、再び現状へと戻った時に新しい扉が開くのでしょう。

おわりに

エッセイの中で角田さん自らが「ひどく偏った短編ばかり」だと書かれています。
例えば同じジャンルであっても、ビッグサンダーマウンテンとスペースマウンテンぐらいの差異があれば楽しめると思うんです。でも、この短編集に関しては展開が似通っている作品が多いので、遊ぶのが難しかったです。(目的だった「コボちゃん」超えはならず)
私にとって短編集とは、異なる曲が連なりながらも一つの世界観を表現するアルバムみたいなものなので、バラード曲ばかりだと胸焼けするし、激しい曲ばかりでもヘドバンしすぎて首がもげちゃうので、構成がとても重要だと思っています。
その一方で、似た展開が並んでいたからこそなのか『ミツザワ書店』は際立って良かったと感じました。
これから人件費を節約したい企業はどんどんレジの無人化を推し進めていくでしょうから、それが当たり前の世代が出てきた時に、小さな書店だったり駄菓子屋のレトロ感が分からないと思うんです。利便性や効率を追求するがあまり、感覚器官を失っていく人間に対して、こうした作品が再現装置として機能するのは重要だと感じました。時間は不可逆なものですが、人間は記録と読解力によって争う事ができます。ノスタルジックの対象もまた、世代によって変わっていくでしょうけど、本は本であり続けて欲しいと思います。

おわり