最後となる今回は前回の「自由」の延長線上にある、自分の自由と他人の自由が折り重なる領域である「社会」についてフォーカスされていました。
第一回でサルトルは自らの資産を亡命してきた人々の為に使ったと紹介されていましたが、そんな彼がどのようにして人生の最期を迎えたのかというのは、個人的にも興味があったのでいつにも増して集中して見てしまいました。
アンガジェマン=社会参加
番組冒頭で、安保法案に対して声を上げた若者たちの姿が映し出されました。
われわれは自由を歓することによって、自由はまったく他人の自由に依拠していること、他人の自由はわれわれの自由に依拠していることを発見する。
アンガジェマンが行われるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。
その責任において何かを選び、その結果を引き受けることに自由がある
これはダーウィンの進化論における食物網とも通じる気がします。
私は選択肢が多いこと(多様性)こそ自由だと思っていたのですが、そうではなくて、決定した後に本来の自由(自分と他人の自由による社会)があるんですね。
同時に多様性の中で自由を確保するということの難しさに気づきました。
「自分の自由を担保するには他人の自由を認めなければならない」
この前提がなければ自分の存在が成り立たないんです。
アンガジュマンの思想
サルトルは「他人は地獄である」としていたので、他人によるレッテルや差別感情がアンガジェであると解釈できます。
そして、自らの自由と引き換えに拘束されることをアンガジェマンだと。
つまり、自由という名の不安定な存在を個人が持つ権力の行使によって存在を確立する(自ら他有化する)ということ。
海老坂先生の「沈黙も意味を持つ」というのは重いですね。本当に。
小出裕章氏「原発と戦争を推し進める愚かな国、日本」出版記念講演会 - YouTube
少し話が変わりますが、これは京都大学原子炉実験室の元助教授の小出裕章さんの講演の一幕です。
その中でマルティン・ニーメラーの言葉を紹介しています。
サルトルが戦った傍観主義というのは「知らない奴は黙ってろ!」という「権利の放棄」と無関心による「容認」によって構成されています。
その結果権力は腐敗し、人々をコントロールしようとするのです。
嘔吐における「下衆ども」ですね。
すなわち人間は、たえず自分自身のそとにあり、人間が人間を存在せしめるのは、自分自身を投企し、自分を自分のそとに失うことによってである。
実存主義はヒューマニズム
この異なる概念がイコールで結ばれるのはなぜなんだょー
人生は、それに意味を与えようとすればいみがある。まず行動し、何らかの企ての中に身を投じるべし。しかる後に反省すれば、すでに賽は投げられており、人はアンガジェされている。
なるほど。流石サルトルやでぇ(エセ関西弁)
私たちは現在にしか存在できないので、投企し続けるものであると。ほほう。
エンゲージリングってアンガジェの事ですよね?と質問する伊集院さん。
結婚する自由と引き換えに拘束されると海老坂先生が説明してくれた。
Yahoo!クソ袋の時とは全然違いますね。
これでいうと坂口恭平さんの態度経済はアンガジェマンによる経済圏ですね。
サルトルの死
晩年のサルトルは目を悪くし、光を失ったそうです。それでもスピーチをし続けて、人々に語りかけました。
〈世界は醜く、不正で、希望がないように見える〉といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の絶望だ。
だが、まさしく私はこれに抵抗し、希望の中で死んでいく。
ただ、この希望、これを作り出さなければならない。
「家族の方は前に」という言葉に「私たち全員が家族です」と女性が答え。
数え切れない人々がサルトルを乗せた霊柩車を囲んだそうです。
人々は傍観主義を唱える学者ではなく、サルトルに投企しました。
この感情の切り替えができるアイデンティティを持っている人間がどれほどいるのだろうかと考えてしまいます。
これは神回決定です。
個人的には100de名著の中でベストですわー。
サルトルやばたんです。