第三回は、唯円の反論を丁寧に読み解き、迷いと救いの間の緊張関係をたじろがずに受け止めていく親鸞の生き方を学んでいく。
第一回目は「易行」
第二回目は「他力本願」と「悪人正機」
について学びましたが、その過程で様々な疑問点が浮かんできました。
今回はそんな疑問に対して唯円が一つ一つアンサーしていったことが特集された内容です。
偽物と本物の違い
悪人が救われるのなら善人は損ではないか?
そんな奴が浄土にいけるはずがない。
親鸞の教えが広がるたびに異議を唱えるものが出始めました。
異議の例をご覧あれ。
第十一条 誓名別信
→阿弥陀仏の本願と念仏の働きどちらを信じるのか?
第十二条 学解往生
→経典を学ばなければ往生できない
第十三条 専修賢善
→悪を恐れない本願ぼこりは往生できない
第十四条 念仏滅罪
→念仏をすれば重い罪が消える
第十五条 即身成仏
→煩悩を乗り越えこの世で悟りを開く
第十六条 回心滅罪
→悪を犯したら回心しなければ往生できない
第十七条 辺地堕獄
→自力の念仏者は浄土の辺境に往生し地獄へ行く
第十八条 施量別報
→お布施の多少によって功徳に差がある
一見すると腑に落ちてしまいそうなモノもありますが、大きく分けて二つに分けられるそうです。
- 専修賢善→良き行いをしなければ往生できないという考え
- 増悪無得→何をしても往生できるという考え方
歎異抄はこの二つをバランスよく構成していると釈先生は解説していました。
特に専修賢善を唱える者からしてみれば、なぜ何もしてない悪人が救われるのだ?という不公平感を抱くことでしょう。
〈現代語訳〉
唯円)その通りでございます。
親鸞)それでは私の言うことに決して背かないか?
唯円)謹んでお受けします。
親鸞)まず、人を千人殺してくれないか? そうすればあなたの往生は確かなものになるだろう。
唯円)聖人の仰せではありますが、私のような器では一人として殺すことなどできるとは思いません。
これで分かるであろう。
どんなことでも自分の思い通りになるのであれば、浄土に往生するために千人の人を殺せと命じらればすぐに殺すことができるはずだ。
けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから一人も殺さないだけなのである。自分の心が良いから殺さないわけでもない。
また、逆に殺すつもりがなくとも百人、或いは千人の人を殺すこともあるだろう。
「薬あればとて、毒をこのむべからず」
→薬があるからといって、好き好んで毒を飲むものではない。
「まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず」
→決して悪を犯すことが往生の妨げにはなりません。
「本願ぼこりは往生できない」という説は間違いであり「本願ぼこり」も間違いである。悪を犯すことは往生の妨げにはならないというのが親鸞の教えだと釈先生の解説。
私たちはたまたま人を殺す理由がないだけであって、誰でも人を殺すことができる本性をもっている。
善悪は自分の都合に左右されると。
釈先生のこの言葉を聞いた伊集院さんが一つの例を挙げました。
NHKでやっていたドキュメンタリーを見ていたら、人間をいたぶる映像を見た時に被験者の脳内ではどのような反応が起きているのかを実験していて。
殴られている人間を見た被験者は不快感を受けていたが、あれはあなたの両親に暴力を振るった人間ですと一言言っただけで、不快感が快感に変わってしまったといいます。
それを踏まえて「知性や理性 社会の倫理に依拠してしまうことの危うさ」と釈先生は表現しました。
念仏で罪は消えるのか?
第十六願
願名 - 離諸不善の願
原文 - 設我得佛 國中人天 乃至聞有 不善名者 不取正覺
異議を唱える側は「悪いことをすると浄土に往生できないが、念仏を唱えることによって罪が消える」というロジックで動機付けをしていますが、親鸞は否定をします。
〈現代語訳〉
念仏するたびに自分の罪が消え去ると信じるのは、それこそ自分の力で罪を消し去って浄土に往生しようとすることに他なりません。
もしそうだとすれば、一生の間に心に思うことは全てみな自分を迷いの世界に繋ぎ止めるものでしかないのですから、命の尽きるまで怠ることなく念仏し続けて初めて浄土に往生できることになります。
しかし、どのような思いがけない出来事に遭うかもしれないし、また病気に悩まされ、苦痛にせめられて心休らかになれないまま命を終えることもあるでしょう。その時は念仏することはできません。
その間につくる罪はどのように消し去ることができるのでしょうか。
罪は消え去らないのだから、浄土に往生することはできないというのでしょうか。
全ての罪業を光明の中に収めとって、決して捨てないという阿弥陀仏の本願を信じてお任せすれば、どのような思いがけない事があって、罪深い行いをし、念仏することなく命が終わろうとも速やかに浄土に往生することができるのです。
罪は消えることはなく、全ての人間は罪と煩悩をもって浄土に行くから、現世で善人だろうと悪人だろうと阿弥陀仏にとっては差別のないことなんですね。
阿弥陀仏には絶対的な救済の性質がありますが、人間の場合は「つい出来心で… 主人には言わないで下さい」ということがありますから、いわばコレは完全なる救済措置ですよね。だから感情が先行すると理解が難しい。
そして唯円は「信心ひとつで救われていく」というオリジナルの部分を付け足したそうです。
〈現代語訳〉
念仏には自己のはからいや思慮分別がないのが本来の姿である。
はからいを捨てていかなければ、本来の他力の念仏にはならない
例えば学校で嫌なことがあっても、何も言わずに親が抱きしめてくれたなら明日も学校に行ける気がする。抱きしめてもらえるからこそ苦難の人生を生き抜いていけるのだと思いますと釈先生。
放送内容はここまでです。
最後の伊集院さんの洞察力はすごくないですか?
たしかに差別なく救済するという事を考えると、祈ることしかできないその人は声を出せない想定になりますよね。
例えば、悪人に襲われて首を切られてしまったら声を出すことができません。それでも悪人も被害者も浄土に行くにはある意味、念仏の無効化が必要になると同時に「安心して死ねる」というと語弊があるでしょうか…。
しかも、遺族側の恨みの感情が入ってしまうと、たちまち成り立たなくなる。
「はからいや思慮分別が無い」というのがこれにあたり、理不尽さや不公平感さえ煩悩にカテゴライズされる。
これは現代の死刑制度についても通じる問題に思いますし、たとえ頭で理解したとしても、大切な存在を奪われた時に血が煮えたぎるような怒りや恨みが湧いた時に念仏を唱えることができるでしょうか?
無理であってもどうやら浄土に行くことができる…