時代を超えた育成日記
みなさんは動物がテーマの本を読みますか?
私は10代の頃にヘリオット先生の小説を数ページ読んでリタイアした記憶があります。その後の興味は「へんないきもの」へ流れてしまって、動物をテーマにした文学作品はほとんど読んだことがありませんでした。
平積みにされていたこの本は一文字だけ「猫」と大きく書かれたシンプルな表紙をしていて、何となく手にとってしまいました。知らない小説を買う時は、まえがきを読んで判断するようにしてるんですけど、この小説は面白そうだと思わせる文章がそこにありました。
およそ50年前に発行された「猫」という珍しい小さな本をアレンジしたというのです。「珍しい」という言葉にまんまとやられてしまった私はほぼ買う気でいて、この本のラスボスが柳田國男であることが分かり、ニヤニヤしながらレジに向かったわけです。←猫だけにニヤニヤね
読んでみるとこの本は昭和に生きた猫たちを生活の中から描写した作品であることが分かりました。猫だけではなく、どのような暮らしがそこにあったのかが分かる貴重なもので、泉鏡花が大の犬嫌いだとか書いてあったりして、読む人によってはもしかしたら歴史の扉が開くんじゃないか。なんて思ってしまいました。
全ての話の感想を書くのは野暮なので、気になった作品について感想を書きたいと思います。
お軽はらきり/有馬賴義
いきなり物騒なタイトルからこの本は幕を開けます。
姉の家から血統の良い二匹の仔猫をもらって、お経と勘平という名前をつけて育てることにするのですが、ずっとお腹を下しているんです。
処置として作者が自らが兵隊の時に、炭の粉を飲んで治ったことを理由に飲ませたり、獣医が生のひき肉をやるのが一番だ!と発言する場面があるんです。
結局生のひき肉で治ったそうなんですが現代から考えるとどうなのでしょうね?
その後、成長したお軽の左の下腹にしこりができるんです。どんどん大きくなって歩きづらくなってしまいました。
この時、妻は盛りがついて妊娠したのだと言いましたが、起き上がることができなくなったので医師に見せることに。
すると医師はこの固いのは膀胱で、排尿ができなくなったのだと判断。麻酔をかけたら死んでしまうから、その場で3人で抑えて手で押すという荒業が…
お軽は少し尿を出しただけで、二、三度繰り返しても出ませんでした。それから毎日医師が家に来て膀胱を押しての繰り返し。それでもしこりは肥大化して、お軽は具合を悪くします。一週間が経ったある日、お経は姿を消しました。
11日目になって東隣に住む老夫婦の家で発見されたお経は、どうやら自らしこりを噛み切ったらしく、傷口からはドロドロと血と膿の混じったものが流れていました。
それから1ヶ月の安静とともにお経は回復。それを見ていた作者は猫が自ら考えて予測して判断して処置をするなんて信じられないと、本能に対して驚くのでした。同時に獣医の誤診を確信。
最終的にお軽は食欲不振になってこの世を去るんですけど、作者はもしかしたら自分がスズメを獲っている最中のお軽の名前を呼んだ拍子に高いところから落ちたのが原因なんじゃないか?と胸にトゲを残してこの物語は終わります。
初めて飼った猫が医療技術も未発達な中で、どうやったら幸せに暮らせたのかを考えるところに作者の愛情を感じますけど、読んでいるうちにテンションがとても下がりました…笑
現代の獣医さんに読んでもらって、どうやったらお軽がハッピーエンドを迎えられたのか教えてほしいですね。
庭前/井伏鱒二
あらすじだけを言ってしまえば、庭の枯れ草を燃やそうとしたらマッチが無くて、取りに行って帰ってきたら枯れ草の中にいた蛇を猫が叩いていたという話なんです。
何がすごいのかって、あしたのジョーぐらいの描写力があるんです。
猫は左手と右手で交互に蝮の頭を叩いてゐた。猫といふやつは左利きも右利きも区別がないやうである。左手で叩くときも右手で叩くときも、蝮の鎌首をもたげてゐる頭上を正確に打つた。蝮は鎌首を打たれるごとに鎌首を下げて行つて、その首を枯葉の上に置いた。すると猫は、片手を揚げたまま前後左右を見廻した。子猫に蝮を見せたいつもりなのだらうか。それとも、よその猫か犬の来るのを警戒するためなのだらうか。きよろきよろと辺りを見廻した。その隙に蝮がさつと猫を目がけて首を伸ばした。猫はまだきよろきよろしながら、ちよつと手を引くだけでうまく蝮の牙を避けた。蝮は鎌首をあげて、続けさまに猫の手を襲つた。しかし猫はちよつと手を引込めるだけである。蝮の体勢で、どこまで頭が伸びるか猫は正確に知つてゐるに違ひない。必要以上には避けないで、蝮の口と殆どすれすれの程度まで手を引込める。
この本は作品ごとに切り口が違うんですけど、庭前に関してはナショナルジオグラフィックみたいなドキュメンタリーとして書かれていて面白いんです。
残像だ!残像だ!って感じで。笑
確かに猫は手が器用で、犬よりも肩の可動域が広いから見ていて飽きないんでしょうね。
仔猫の太平洋横断/尾高京子
この話は昭和29年の11月に書かれた作品で、尾高夫妻がアメリカに滞在している時の体験を綴ったものです。こういう話は貴重だと思います。
滞在したミシガン大学のA教授の家は閑静な住宅街にあって、50年前まで森林だったから野生のウサギやリスが沢山いたそうです。
がしかしーー A教授の庭に沢山いたシマリスの一種であるチップマンクは8歳になる白い大型のペルシア猫が狩り尽くしたそうです。笑
猫は生態系を変えてしまうので、野放図に増えさせるのはどうかと思いますね。
オーストラリアでは大規模に猫を処分する事態になっているようです。
話を戻して、尾高夫妻が日本に帰国する直前に立ち寄ったロサンゼルスのレコード店で仔猫に一目惚れして、そこにいた二匹の仔猫を譲ってもらうことになります。
もらうのはいいけど、どうやって日本に連れ帰るかという問題ですよね。
なんとかカゴを用意して、パナマ運河から来た貨物船に乗せてもらうことに成功。なんと、この船にも猫が一匹いて船長さんも大の猫好きだったというドラマチックな展開が。
仔猫にキティとパティ(子供をあやす時にアメリカではPat a cakeということから)と名付けて、ドタバタと16日間の航海を無事に過ごすのでした。
帰国してからは好奇心旺盛な猫が家の中にあるモノをどこかに隠してしまって、主人の腕時計が火の入っていない灰の中から出てきたというエピソードが書かれています。
犬なら分かりますけど、そんなことをする猫がいるなんて面白いですね。
猫 子猫/寺田寅彦
子供って母親の影響を受けるじゃないですか。この寺田寅彦氏の母親は猫嫌いだったから、寺田氏もそれほど猫のことを好いていなかったんです。
猫と子猫の二つの作品に書かれているのは、まるで猫に興味のなかった寺田氏の心情がどんどん変わっていく過程が描かれているんです。端的に言えば育成日記ですね。
最初と最後の一節を抜き出して比べてみましょう。
私の家では自分の物心ついて以来かつて猫を飼つた事はなかつた。第一私の母が猫といふ猫を概念的に憎んで居た。親類の家にも、犬は居ても飼猫は見られなかつた。猫さへ見れば手当たり次第にものを投げ付けなければならないやうに思つて居た。或時居た下男などは丹念に縄切れでわなを作つて生垣のぬけ穴に仕掛け、何疋かの野猫を絞殺したりした。甥の或るものは祖先伝来の槍をふり廻して猫を突くと云つて暗闇にしやがんで居た事もあつた。猫の鳴声を聞くと同時に槍を放り出しておいて奥の間に逃げ込むのではあつたが。
そんな様な訳で猫といふものに余りに興味のない私はつい縁の下を覗いて見る丈の事もしないで居た。
縁の下でお産している猫をシカトしていた主人公が以下のようになります。
私は猫に対して感ずるやうな純粋な温かい愛情を人間に対して懐く事の出来ないのを残念に思ふ。さういふ事が可能になる為には私は人間より一段高い存在になる必要があるかも知れない。それはとても出来さうもないし、仮りにそれが出来たとした時に私は恐らく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私は矢張子猫でも可愛がつて、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れ憚り(はばかり)或は憎むより外はないかもしれない。
人間と猫の勢力図が逆転しています笑
もしも世界から猫が消えたなら、人間に愛情を感じる為に超人になって孤独と悲哀に耐えなければならないんです。
時代から考えれば、戦争を繰り返す人間を愛することがどれだけ難しいことなのか肌感覚で理解していたのでしょうし、人類は最終的に猫に逃げるしかないんですね。
どら猫観察記/柳田國男
この本には柳田國男が書いた作品が二つあって、もう一つの「猫の島」という作品は陸前高田の田代島を代表とする、犬を上陸させてはいけないという俗信を持つ島を柳田國男が分析して仮説を述べているザ・ヤナギダクニオ!的なお話です。
民俗学が好きだったり、歴史が好きな人はなおのこと面白いと思います。
一方で「どら猫観察記」は日本の中だけではなく、人間と猫の世界を重ね合わせて猫を観察しているんです。
冒頭、スイスで日本語教師の友人が住む市で畜犬税(ペット税)が3割も引き上げられて、とても払えないから泣きながら役所(日本で言う保健所)へ引き渡したという話から始まります。
その当時のジュネーヴでは犬文化が発展していて野良犬がおらず、犬を連れて歩いてる独身者が多かったと書かれていて、高い建物の窓から下を歩く人間を眺めている犬を幾らでも目にする社会だったようです。
ここで、「じゃあなぜ畜猫税はないのだろうか?」という疑問を持って、柳田國男発展考察するわけです。
仮説として挙げられているのは、犬は家来として、猫は家畜として扱われるということ。そのうえで、猫は人間の愛護がなくとも幾らでも生存できると指摘されています。
これは私の推測ですけど、狩猟文化が背景にあるから犬が優位な社会になったのではないでしょうか。
フランスはプードルが有名で、スイスはハウンド犬が有名だったと思います。(ムツゴロウさんが言っていたような気がする…)
次にイタリアのヴェネツィアにあるダニエリという旅館のエピソードで、当時のパンフレットには地下にどら猫がたくさんいると記載されていたらしく、そんな湿気たところに何十匹も猫がいるのだろうか?と疑問に思って、給仕係の方に尋ねると、毎日一定のエサを置いていると説明したそうです。
つまり、全くの「ノラ」ではないけども純粋な家畜という位置付けでもない。
しかも人間はこれを観光に使っていて、日本の招き猫と同じ部類なのだろうかと考えるんです。
ジュネーブは犬社会でしたがローマは猫社会。
倒れた神殿の石柱の上や、旧王の塚穴の中などいたるところに猫がいて、冬が暖かいローマは猫の楽園だったそうです。
猫は人間から独立した社会を築いていて、イタリアの環境の変化がどのように猫の社会に影響を与えるのだろうかと書かれています。面白いのがそこにある最後の一文。
後年或はこの問題の興味の為のみに、所謂久遠(くをん)の都府を訪ひ来る者が無いとは言はれぬ。
くにお「もっかい来てぇなぁ」
ってことですよね笑
くにおフラグが立ちました。
この後、東京に帰っても人間と猫の考察を続けます。
家には平たい顔が特徴の白勝ちの赤毛の斑猫がいて、ずっとこの斑を継承してる。
初代は縁の下に住み着いた牝猫で、もともと飼猫だったのがどんどん気性が荒くなり飼い主から離れて、安全な食物の求め方を学習したそうです。(エサをもらうっていう)
それでも人間が見ている時は全く油断がなかったそうです。その後、春になって出産して二、三匹の仔猫を産んで、どれも赤い斑をもっていたそうな。
周りの人間の中には、仔猫を懐柔して飼猫にしようとした人がいたそうですが、成長するにしたがって気性が荒くなり立派な泥棒猫へと育ったそうです。
柳田國男はそんな猫社会と近い距離に身を置いていたわけですが、日本には「化け猫」の話がたくさんあることについて触れています。
現代には「マグロ美味い」と話す猫がいるから驚きませんが、魚のゴマメ売りが歩いていたら「ゴマメゴマメ」という声が聞こえて声のする方に行ったら猫しか居なかったなんてエピソードが書かれています。
あと、これは知らなかったのですが当時の俗説で「海が荒れている時は龍神様に三毛猫のオスを生贄に捧げると厄を逃れることができる」というものがあって、貴重な三毛猫のオスを買い求める船頭がいたそうです。
まぁ、意味が分かりませんけど、他民族でも猫を生贄にする文化はたまにあるそうです。
こういうことがあるから、猫は人間に対して一定の距離をとるのは当たり前だし、化け猫という話が出てくるのだろうと結論付けています。
最後にはこう書かれています。
最後に尚一つ附添へたいのは、日本の各地方の方言の不可解なる変化と一致とである。猫をヨモといふ県があり狐をヨモといふ県がある。鼠を「嫁が君」といふのも、或はヨモの転訛かもしれぬ。雀をヨム鳥といふ処もある。南の方の島々、殊に沖縄に於いてはヨーモと謂えば猿である。言葉の感じは何も霊物又は魔物といふに在るらしいが確かで無い。さうして琉球にはもうそのヨーモ猿は居ないのである。(大正十五年)
物理学会にはアインシュタインの宿題というものが長らく存在していますが、いうならばこれは民俗学会における柳田國男の宿題ではないでしょうか?
端的に言えば「なぜ別々の土地で同音異義語の名詞が生まれるのか?」ということでしょう。
私は方言を話しませんからサッパリ分かりません。小学校頃だったか国語が何かの授業で方言を習ったことがあるんですが、カエルのことを「げえるぱっぱ」と呼ぶらしいんです。
3文字を6文字にするなんてどうかしてるとしか思えませんが、ヨーモが鳴き声の擬音である可能性はありますよね。
個人的には民俗学者や動物学者の方々が喧喧諤諤話し合って、侃侃諤諤述べるのをテレビで見たいです。(長い場合は録画して倍速で見ますけど←おいっ!)
おわりに
ところどころ、自分の家の猫を自慢するだけの親バカゾーンが存在するのも面白くて、どの時代にもいるんだなぁなんて思いながら読んでいました。
最後にクラフト・エヴィング商會という二人組のユニットの作品で「忘れもの、探しもの」という絵本のパートもあるのでお子さんも読めると思います。
優しいお話でお軽はらきりだとかマムシを引きずり回すようなグロい描写は一切ございません!笑
ええ、ここだけならきっと読めるでしょう。
猫好きの方はもちろん、歴史が好きな人や獣医師、動物学者、民俗学者、あと一瞬登場する泉鏡花が好きな人は手にとってみて下さい。猫がどのように人間と生きてきたのかが分かる一冊です。
- 作者: 大佛次郎,有馬頼義,尾高京子,谷崎潤一郎,井伏鱒二,瀧井孝作,猪熊弦一郎,クラフト・エヴィング商會
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/11/24
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