なぜそんなに美味しそうなのか
「想像ラジオ」と一緒に買ったんです。
「ゾンビ日記」というタイトル
100% 読みたくなりますやん。
しかも押井守監督の「小説」ですからね。どんな文章を書くのかも含めて気になりました。
これぞ我が銃、これに似たものは多けれど、これぞ我がもの。
我が銃は最良の友、我が生命なり。
カッコ良く幕を開けますが、前半に書かれているのは銃の撃ち方と食レポだけです。とても美味しそうに感じるのはなぜなのでしょうか笑
それで、何があったのかというと、この世界では人が死ななくなったんです。
長寿とか不老不死ではなくて、生命活動を終えた肉体が再び動き出すという現象で。
これにより世界は大混乱に陥ります。
街の至る所に車が乗り捨てられていたり、交差点には装甲車が放置されている。
秩序の無い世界の中で主人公は呼吸を整え、狙いを定めてトリガーに指をかける。決まって頭を狙うのは、彼らの動きを止めるには頭を狙うしかなく、弾が外れたとしても放物線を考えれば頭を狙えばどこかしらに着弾するというのが理由だった。
この一連の動作を主人公は淡々とこなしていきます。
でも、この主人公はプロのスナイパーではないし、スナイパーにとってはデメリットでしかないタバコを吸うし迷彩服も着ていない。なぜかといえば死んだ人々はただ歩き続けるだけで、主人公に危害を与えることはしないからです。
かつてはヤケになって酒に溺れ、喰いたいものを好きなだけ喰っていた時期もあったのだが、狙撃を始めてからの俺は節制を心がけ、泥酔と飽食を慎重に避けて生活していた。
健康を維持して可能な限り長生きしたい、という理由からではない。
世界が例外状況におかれようが、核戦争後の廃墟でサバイバルしようが、そこに生き残った人間たちが僅かでも存在するなら、欲望というものにはそれなりの意味があるのかもしれない。食料や医薬品、武器など自己の生存の優位を維持するためのものから、快楽を満たすための酒や女に至るまでーー欲望の対象物を獲得するために争うことに価値を見出し、情熱を注ぐことができたかもしれない。
マッドマックスや北斗神拳の世界も、欲望ありきの物語だ。
集団と呼びうる人間が生存しているならば、の話だ。
〈中略〉
人ひとりなるは良からずーーとは、よくぞ言ったものだ。
人間は一人では人間になることも、人間として生きることもできない。
それがどのような集団であれ、群れを成すことのみによって、ヒトは人間であることが可能だ。
俺は孤独なヒトとして地上にあるわけではないし、おそらくは最後の人間として生き延びてしまったーー置き去りにされてしまっただけだから、楽園の孤独なアダムではないし、フランチェスコ派の修道士でも、禅坊主でもない。欲望や煩悩から自由な人間であるわけがない。病気や死や苦痛を恐れ、できれば長生きもしたいし、旨い食い物にもありつきたい。もしかしたら忘れているだけで性欲だってまだあるのかもしれない。がしかし、それはかつて俺が社会の一員であった頃の欲望の残りかすであり、記憶でしかないのだ。
俺は自分の欲望を制御し、泥酔や飽食を避ける事で、人間としての拠り所たる欲望を巧みに保存しているだけなのかもしれない。
だからこそ朝はお粥で、昼はのり弁でなければならないのだ。
笑
社会性を失った人間はヒトであるが、人間であり続けるためには、日々発生し続ける欲望を競争の中で手に入れ続けなければならないということが書いてあって、アドラー心理学的な話でもあるんですよね。
一方で、主人公が生きる世界はヒトである自分と、発生し続ける死者だけが存在している。
いつか必ず死ぬ運命にあるけど、今まで居た世界の「死」ではないんですよね。
死んだ自分の体がゾンビとして徘徊を始める恐怖があるんです。
主人公は生物学的な現象としての死と、宗教や社会の習慣としての死の二面性を理解しているから、恐怖に関して理性のブレーキがかかっています。
それでも自分以外の人間がいなくなって、ヒトとして存在していたとしても「生きたい」という欲望が最後に残る。
文中に「欲望の残りかす」という表現が出てきて、これは銃腔に残った酸化物との対比として使った言葉だと思いました。
欠勤者や退職者が急増し、死体収容作業は深刻な人員不足に陥った。
当局は特別手当の支給や、他部署からの増援によってなんとか対処しようとしたが、作業の内実が変わらぬ以上、事態の本質的な解決に繋がるはずもない。
苦し紛れに採用された施策が、お定まりの外国人労働者だったがーー死者への敬意というきわめてデリケートな感情からして、民族的差別感情という新たな問題を招くことになり、公序良俗や治安の観点からすると明らかに 本末転倒というしかなかった。
社会における生と死のバランスシートは緩やかに、しかし確実に死へと傾き始めたのだった。
亡き者が歩きまわる現象に直面した人間たちは、いくつかの考え方に別れました。
ひとつは死体回収として歩き回る彼らを焼却処分すること。
もうひとつはナチスのホロコーストと同様のことは避けるべきという意見。
そして、宗教家の中では復活の時だと考える人間がいました。
死体は動き続けるので棺桶に入れて土葬してもゴトゴトと音を立てますから、火葬するしかないんですね。
批判を避けるために夜中に回収作業をするようにしましたが、さっきまで生きていた人間を焼却する職員は精神的なダメージを負ってPTSDになってしまうのでした。
抱えきれなくなった問題や人員確保は外国人労働者で埋めようという政府の汚い思考回路が書かれているあたりにも、押井監督はリアリストだなぁと思ってしまいました。このあとにも、社会と軍隊の関係性について書かれていて面白いです。端的に言えば軍人の承認欲求を社会が満たすには、殺人を肯定することが必要になるということです。だから人々は目をそらすのだと。
主人公には舞踏家の姉がいて、ふと彼女の言葉を回想することが多いです。
歴史的に「踊り」という文化は鎮魂という宗教的な側面があって、動きまわる死体を葬っている自分と照らし合わせているのでした。ちなみにその姉が無事なのかどうかは分かりません。
その後は殺人について考える場面が続きます。
「適切な条件づけを行い、適切な環境を整えれば、ほとんど例外なくだれでも人が殺せるようになるし、また実際に殺す」
戦争における殺人から何人もの歴史家や哲学者が考えてきたものを踏まえて考察します。
ここで米陸軍准将の経験があり歴史学者でもあるS.L.Aマーシャルという人物の話が紹介されているのですが、同氏によると戦場に赴いたアメリカのライフル銃兵の15〜20%は発砲しなかったというのです。
人殺しになりたくない彼らは俗に「火星撃ち」と呼ばれる偽装発砲をしたのだと。ここには戦闘を避けたいがための「威嚇射撃」も含まれるそうです。
人間には人間を殺したくない感情が確かに存在するが、条件と環境が整えば話は別だと文章は続きます。
人間性を否定したうえで殺人は開始され、ターゲットの人間性を認識すると罪悪感と恐怖にとらわれるので、できるだけ離れた位置から攻撃を行うのだと。
規模が大きくなるほど個人を考えなくなるので大量殺戮は生まれるとしています。
私は戦争を知りませんからこのパートで想像できるモノは少ないんですけど、原発の立地地域を考えてしまいました。
今年は埼玉県の新座にある変電所のケーブル火災で東京ブラックアウトなんてこともありましたが、選民思想を持つ人間たちも罪悪感にとらわれたくないから顔の分からない遠くの地方に問題を押し付けるのではないかと。
311直後は罪悪感を持っていたであろう政治家は責任を取りたくない一心で「想定外」を理由にするだけの自己弁護と、国民の忘却を加速するために五輪を誘致。沖縄には基地があるし、日本政府は地元自治体の意見や権利の主張に耳を傾けずに、一方的に基地の場所を決めつけてアメリカに差し出し「絆」という宗教に走る。人間性を否定する政治も殺人に等しいと思ってしまいました。
ここで改めて簡単なあらすじを書いておきます。
主人公はシューティングゲームが好きで、年に2回はアメリカの射撃場に赴いて拳銃とライフルの腕を磨いていました。マニアの部類ですね。
結婚していて、妻に手をあげることもない愛妻家でした。
時間軸ははっきりしませんが、東日本大震災後の東京が舞台です。ある日とつぜん人々は眠りをきっかけに死者になるようになったのでした。
ウィルスが原因なのかどうかは分かりませんが、死者になる確率は一定で、財力があるからといって抗うことはできません。
これにより世界はパニックとなり、将来を絶望した若者を中心に秩序は乱れていくのです。
先ほど書いたように政府はどうにか秩序の維持を試みましたが、日増しに増える死者の群れに対しては焼け石に水。
主人公は人間が死者に変わる中をサバイバルしているのでした。
住居は六本木近くにある東欧の某国が大使館として使っていた二階建ての建物で、大きなオーブンなど立派な設備がありますが食べるものはもっぱらレトルト品や乾麺です。
朝は野菜ジュースとお粥。昼は自分で作ったのり弁を食べます。タケノコの辣油漬けと大根の漬物を入れたりして。
本格的な副食物を食べるのは夜だけで、熱いシャワーを浴びて、モーツァルトを聴きながらビールを飲んで過ごします。
物資調達の時は軽トラで移動しますが、基本的な移動手段はSAABの白い自転車。
レミントンとベレッタを担いで、新宿駅から内回りに狙撃するのが日課です。
1日50人を狙撃して半年以上が経過していますから、約1万人を葬ってきたことになります。
無抵抗の死者をどうして撃つのかといえば、死を生きている彼らに死を与えるために撃つのでした。
この点において、主人公は自分は兵士やテロリストと違い倫理観を持っているのだと、明確に区別していました。
後半にさしかかり、自分以外の誰かが放った銃声の音に気づきました。
自分以外に生存者がいるのだと。
しかしながら、映画のように登場人物が共闘するような関係を自分は望んではいないし、よく考えてみれば大型の口径から打ち出されたド派手な銃声からするに、楽しむ為の狙撃であると考えられました。
主人公はそこに憤りを感じ、レミントンで頭を吹き飛ばしてやると決意するのでした。
翌日、万世橋へ向かいそこで聞こえた発砲音から末広町方面からの狙撃であると判断し居場所を特定するために移動します。
誤算だったのは遠くからの狙撃と見ていた時に、自分の100メートル先のバリケードから発砲されたこと。
トラックの影にかくれて撃ち合いになりましたが、ジリ貧と考えて相手がバレットの・50BMGを装填する時間を見計らって、レミントンをそのままに離脱して、死者に紛れて相手の後ろに回り込むことにしました。
バリケードの近くには二人の人間の影があり、死人のような主人公が右手に持ったベレッタを花のように差し出すと、12歳ぐらいの少女は悲鳴をあげ、それに気づいた男は恐怖に取り憑かれながらも腰に手を回そうとします。
そしてラストシーンへ…
まずは全身を流れる血液に、酸素をたっぷり供給しなくてはならない。
そのために、ゆっくりと息を吸う。
肩を上下させたり、胸をふくらませたりしてはならない。
自然に呼吸するために、まずは息を吐く。
息を吐ききると、緊張から解放された横隔膜が広がり、自然に呼気が呼びこまれて肺を満たす。
呼気はゆっくりと長く、吸気は短くーー頃合いをみて、息を止める。
全身の筋肉が適度に弛緩し、身体と銃器の両方に安定した理想的な状態が実現する。
ゆっくりと息を吐き、短く吸い、息を吐いて短く吸い、息を吐いて止める。
リラックスして、素早く照準しーーその瞬間にトリガーを絞る。
可能な限り静かにーー。
俺は狙撃手(スナイパー)だ。
といっても俺は狙撃兵ではないし、特殊部隊の隊員でもない。
殺し屋でもテロリストでもない。
だが俺は殺人者(ひとごろし)だ。
俺の標的は生死を問わず人間だからだ。
死んだ子どもを撃つことができなかった主人公が、生きた子どもを撃ったというのは衝撃でした。
楽しむために狙撃するというのは、魂に対する冒涜ですから生命倫理を逸脱しています。
ただこの正義を肯定するのって難しいですよね。秩序も法律も無いような世界ですし、客観的に人を裁くということができません。
だから肯定するとすれば、自己防衛のために射殺したとしか言いようがない気がします。
おわりに
いやぁ、面白かったですね。
ゾンビだらけの世界で食レポするスナイパー笑
小説は男の一人称で書かれているので、私は声優の大塚明夫さんの声で脳内再生してました。
銃を手入れするシーンが頻繁に出てきて、モンスターハンターというゲームでヘビィボウガンやガンランスのカチャカチャ鳴る金属音が好きな人にはオススメです。(対象者がせまいぞ!もっといい例え話はないのか!)
それか、男がどのように一人暮らしをしているのか知りたい女性の方にもオススメです。「あっそう、鍋でラーメン食べるんだ。へぇ〜」みたいな笑
自分以外の何もかもが破壊されていく中で、いつまで自分を保っていられるかというサバイバルですから、究極の割れ窓理論に思いました。
お茶目とハードボイルドが同居する面白さを短編でもいいからアニメとしても見てみたいですねぇ。
↑そういえば今年、ドラクエビルターズの記事が面白かったってツイートしたら監督のメルマガのアカウントからリツイ頂けたんですよ。(はい、ただの自慢です)