モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「自己流園芸ベランダ派/著 いとうせいこう」の感想

不自然の息吹き

この本には2004年から06年までの園芸日記が書いてあって、これが読み始めるとまぁ面白い。共感することも多く、こうやって試行錯誤しながら開花させているんだなぁと感じました。その中から個人的に注目したところを紹介しつつ感想を書いていきたいと思います。

 

まえがき

そもそも俺には日記を書く習慣がない。小さな自己の毎日を書き残すことに意味を感じないからだ。だが、相手が植物となると違う。猛烈な欲望がわいてきて、なるべく正確に彼らの様子を写しとっておきたくなる。

俺は日記係のつもりなのかもしれない。異生物である植物の生態系に、俺は日記係として参加させてもらっているのだ。

まずは、まえがきの中から一部抜粋したこの文章。

植物は普通、道端や野山に生えているわけで、ベランダには生えていません。だから、せいこうさんは人間とは違う時間軸で生きる植物の日常に参加させてもらうというスタンスだと表明しているわけですね。

その先のゴールは綺麗な花を咲かすことではなくて『どうやったら植物に認められるか?』ということ。もちろん植物は言葉を話さないから、水と日光を与えて見守ることしか人間にはできないのだけど、目には見えない愛というステータスがないと枯れます。そしてこの本がせいこうさんの「猛烈な欲望」が「愛」であることを証明する内容となっているのに気づかされるのです。

 

始まりのご挨拶--福音の春が来た

俺のベランダではまだボケが咲き続けており、黄色い水仙の花が風に揺れている。また、それが何だったか失念していた小さな木から赤い蕾が現れて匂い桜だったことを自己申告し、買ってきたばかりのカリンが早くも環境に慣れて花の準備をしているところだ。

ベランダ園芸歴十年の庭の彩りときたら、ボケの花なんて見たこともない私の頭の中に綺麗な風景を見せてくれました。

このパートだけでもボケ、水仙、匂い桜、カリン、藤の花が登場しています。

花にそれほど興味がない(木とかサボテンのほうがなんか好き)私でも「育てるのも面白いかも」と思ってしまう文章力。

まぁ、そう言う私は椿のタネを発芽させずにカビの餌にしてしまったんですけどね。(罪悪感が蘇る…)

 

 藤ーー藤の花の機嫌を直した引っ越し

買ってきてから何年も、この藤は頑強に咲くのを拒んでいたのである。

〈中略〉

それが四年前の引っ越しで突然咲くようになった。正確に言うと四年前の六月に引っ越し、狭いながらも北側、東側、西側と三つあるベランダのうち最上等スペース、つまり東向きの土地を藤に与えたところ、翌年に一本だけ房が垂れたのだった。

〈中略〉

要するにベランダか東を向いているか否かが、藤の機嫌を左右しているだけだと俺にはもうわかっている。

人間がやれることなど、実にわずかなものなのだ。

この文章からは、人間にとってはごくわずかな変化が植物にとっては大きな変化であることを感じさせます。

真夏の煮えたぎるベランダでも生きているような強い藤でも、日光を浴びないと咲くことがないというのは、長い間面倒を見ないと分からないことですね。

試行錯誤の数だけ経験則が蓄積されていくとしたら、玄人の目から見える「綺麗」は私たちから見える綺麗とは全く別の色彩で映っているのではないでしょうか。

 

腕試しされる季節

面白いもので、害虫諸君は気象予報士などよりよっぽど早く走り梅雨の始まりを感知し、好きな葉を選んで斥候を出す。こちらが気づかずにいると、斥候は日々こっそりと援軍を要請しては増えていく。

〈中略〉 

ベランダ歴わずか十年の俺が偉そうに言うのもなんだが、コツは『緑の面積に応じて水をやる』ということたろう。葉が多ければ水をやり過ぎてもなんとか吸ってくれるが、逆はない。だから木が弱り、表土にカビが生え、害虫帝国の標的になって滅びる。

 いやー、この情報はありがたい。

以前に私は鉢をキノコバエの巣にしてしまったことがあるので、これからはこの情報を目安に水をあげようと思います。

ハチがハエになるって駄洒落じゃないですからね。

で、ちなみに本を読む限りではせいこうさんが使ってる土は100%腐葉土みたいです。私はカビが怖くて腐葉土使えなくなりました。

 

アヤメ、露草ーー小鳥たちのプレゼント

だが、小鳥は無自覚なお返しもするのである。どこか遠くの池の端っこあたりから植物の種を運び、水っぽい糞に包んでプレゼントしてくれるのだ。

その贈り物がアヤメ、露草だったというところに俺はしびれる。なんと優雅な取り合わせだろう。やつらが平安時代の小鳥だったと言われても、俺は納得する。

〈中略〉

こうしてご近所のベランダへと運ばれたアヤメと露草が、今度は人間の手によって移動した。俺の家にやって来た。生命の巨大なサイクルに混ぜてもらった俺は今、とてもうれしい。

この本の中には植物だけではなくて人間についても書かれているのが面白い。

マンション高層階の住人から譲ってもらったアヤメと露草は、もともと鳥がタネを運んできたというドラマチックな話でありながら、ご近所付き合いという交易によって違う場所へと運ばれたわけです。もし、人類の多くが同じように植物を育て始めたら、人間を利用して、遠くまで移動する植物が出てくるかもしれません。考えてみればスーパーで流通している野菜のほとんどは外来種だし。

 

ベランダー路上派に愛を込めて

今、俺のベランダには花がない。

けれどわ道端には色んな花が咲いているのである。

道端といっても、雑草とか緑化運動による植樹とかのことではない。

家の前の道路を半ば不法占拠してトロ箱や鉢を置いたり、植樹された土の部分を勝手に利用して好みの植物を植えたりしている同志諸君が、花で町に彩りを加えているのだ。

俺は以前から、彼ら不法占拠組のこともベランダーと呼んでいる。くわしく言えばベランダー路上派。ストリート系である。

なんとも絵が浮かんでくる文章。

私が小学校の頃、登下校中に「おはよー」って言ってくるおばさんはまさしくストリート系でしたね。

あと、庭に7人の小人みたいな陶器の置物があるお宅があって、駐車スペースに雑草みたいに沢山オジギソウが生えてたんですよ。指で触ると葉を閉じるんです。

「コイツ動くぞ!」って感激したのを思い出しました。(本文と関係ない話)

 

シャクナゲーー師の教え

前輪の空気が抜けたままの自転車で、少し遠くのスーパーへ出かけた。かつて沈丁花を激安でゲットした注目の店である。

〈中略〉

シャクナゲね。これならあたしも買おうかしら」

鉢の隙間を透かし見ると、小さなおばさんである。不気味なので無視すると、ばあさんはあっという間に俺の方へ回り込んできた。

俺が聞きもしないのに、「あたし、駐車場に百鉢も置いていてね。お父さんに怒られるのよ」などと言い始める。

そうですかとか何とか適当にあいづちを打っていると、ばあさんは俺のシャクナゲのてっぺんをのぞき、「これ、蕾が腐ってる。咲かないよ」と言った。

あわてて次々に別のシャクナゲを取り、ばあさんが納得するまで待った。

彼女が選んだシャクナゲのてっぺんには、確かに蕾がついており、しかも茎の根元がしっかりしていた。「こうでなくちゃ」とばあさんは言ったものだ。

その時にはすでに、ばあさんは俺の師であった。ふと右を見ると高さ一メートル弱のサザンカがあった。蕾はたくさん。しかもほころび始めているのもある。

実は先週書いたサザンカはもう死んだも同然になっていたから、俺は新しいサザンカ導入を決めかけた。

だが、師がそれを阻止した。二千円は高い、と言うのである。そして師はこう付け加えた。

「一度に買っちゃダメさ。ひとつひとつ買わないと」

天啓であった。ひとつ買っては世話を焼く。それこそが園芸の基本姿勢ではないか。俺は自分を恥じた。

だが、続く師の言葉はきわめてリアルアルスティクなのであった。

「世話が面倒じゃないか」

 オチまでついて秀逸なエピソード。

おせっかいおばさんに絡まれただけなのに。

 

ゴールデンモンキーーー珍名さんの到来

何が驚いたといってその形状であった。なんだかボコっとした根っこみたいな物が盛り上がっていて、しかもその周囲に茶色い毛がボサボサ生えている。タカワラビ属の植物らしい。

〈中略〉

いかに春に浮かれた客でも"ああ、ゴールデンモンキーの季節だなあ"とは思うまい。結果、その鉢の前だけがやたらに静かなのだった。ともかく、みな絶句して通り過ぎるのみだ。

そんな中、俺だけがゴールデンモンキー…と何度もつぶやいた。強引な名前がおかしくて仕方なく、ぶざまな形がまた笑えた。

で、買った。愛着がわいてしまったのだった。

家で調べると別名がゴールデンチャウチャウであった。売れるためならどんな改名も受け入れるこの哀れな植物を、俺はあくまで丁重に扱うつもりだ。

気になって画像検索してみたら全く文章通りの植物が出てきました。ココナッツから芽が出てる感じで、蟻塚から植物はえてきたみたいな。面白いですねぇ。買いたくなる気持ち分かります。

名前のゴールデンモンキーは猿の比喩だというのは理解できますけど、チャウチャウと言われて海外の方は理解できるんですかね?

生息する場所によって名前が違うということからは、そこに住む人間性がうかがい知ることができそうな気がします。(民俗学の領域)

 

ライムーー一年越しの告白

翌日、俺の判断に抗議するようにしてライムの葉が全部散った。殺虫剤が原因らしかった。結果、何を守ったのかが不明になった。

なぜか俺は、その枯れたライムをこれまでの一年間捨てられないままでいたが、もう時効だろう。明日、片づけようと思う。

知人にプレゼントするはずのライムが実を付けてから愛着がわき育て続けたある日。葉っぱにいも虫がいたので殺虫剤を撒いたその瞬間、わざわざここまで上がってきたのに殺していいのかと呵責が生まれ、育てるにしても余分な葉っぱもないからと迷いを断ち切るように噴射したら、虫もライムも死んだというなんとも言えない話です。

私の興味の関心は「どうやって育てるか」とは別に「どうやって死を乗り越えるのか」にあった。それを念頭に置きながら本を読み進めると、意外なことにせいこうさんはけっこう鉢植えを枯らしてるんです。

ようやく育った葉っぱを撫でた瞬間にちぎってしまうとか、店の親父の言うとおりにスイレン水草とメダカとタニシを一緒に飼ったら毒の沼地みたいになるとか、うっかり殺すんですよ。このパートの話もそうですけど。

それで「もしかしたら生き返るかも」って水をあげ続けて、枯れた植物が蘇る話もあったりする。そういう経験をしているからこそ捨てられないのでしょう。

目を覚まさないけど生きている状態のことを「植物人間」と呼ぶことがありますが、これは外界から栄養や情報を自分の内界へと取り入れている「命の性質」だと思いました。つまりは、一定の条件さえ揃えば命は蘇るという。

もちろん死んだものは蘇りません。それでも、命の保つ可能性は大きいと思います。生きている者にできることといえば、可能性に見切りをつけずに条件を整え、最大限の実現を目指すことだけでしょう。

 

シシトウ

現在、シシトウは我がベランダの注目株である。葉に害虫もつかなければ、水やりの過不足にも弱ることがない。そして、小指の先くらいの小さな五弁の白い花を次々に咲かせては、そこに無駄なくシシトウを実らせる。おすすめの植物だ。

収穫しても収穫しても、シシトウはどんどん実る。みるみるうちに長く伸び、太くふくらんで収穫をせがむ。わざと取らずに放っておけば、真っ赤に変色していかにもトウガラシ然とするのがまた面白い。

これ読んで思い出したんですけど「笑っていいとも!」でタモさんが全く同じことを言ってたんです。ゲストは誰だったか忘れましたけど、シシトウはいくらでも生えてくるってトークをしていて。

そのタモさんの言葉どおりに、この本の中では4回もシシトウについて語られています。それほどまでに生命力が強いとなると、なんか育ててみたくなりますけど、辛いのはちょっと…。毎日はきついです。

 

ヘデラーー最高の小さな贈り物

数年たずさわっていたテレビ番組が、この三月で終了した。学園物の形式で俺が先生、若いミュージシャンたちが生徒という番組である。

〈中略〉

最後の収録のあと、生徒たちがもぞもぞと一列に並んだ。今日までありがとうございましたと代表格から挨拶があり、僕は「これ、先生に」という言葉とともに小さな包みを渡された。

中に入っていたのは、小さな小さなヘデラだった。わずか数百円の鉢である。花も実もつかない、素朴な植物である。しかし、俺はその飾らない贈り物が愛らしくて仕方なかった。

〈中略〉

まさか奴らは俺がこれほど喜び、今も毎日のように葉の表面をなでているとは夢にも思うまい。「植物が好きだとは知っていたけど、そんなにうれしいんですか?」ときょとんとするばかりだろう。

諸君のかわりなんだとは、俺も恥ずかしくて言えない。だが、俺は誰かにヘデラを眺め、慈しむように水をやり、ツルの重さを手で感じて過ごしている。

植物をもらったことは何度かあるけれど、こんなに意味の深い鉢は珍しい。

植物の日記を読んでいると、せいこうさんが芸能人であることを忘れてしまうんですけど、このパートは印象的です。

植物を人に贈るというのはたいていの場合は花言葉を考えて贈られる。でも、それは表層的な意味であって、誰がどんな思いを込めて贈ったのかが全てに思います。

このエピソードの他に花束をもらった話があって、花束の中に混じっていた「細くて緑色の茎がクネクネしてるやつ」を花瓶に生けてひげ根が出て、とうとう鉢植えに移すことに成功するんです。名前なんて分かりませんから「ノッポ」という名前も付けて愛でるんですけど。

こういうのを見ると育成って、暴走した汽車の前方にレールを置き続けて導く感じがしてきます。そのうち汽車はそれを理解して、自立した思考を持って判断しながら走っていく。(トーマス論と名付けよう)

 

終わりのご挨拶

つまり、園芸は植物を支配することではないのだ。むしろそれが出来ないことを教えてくれるのである。

枯れてしまった植物に、だから俺は感謝を捧げる。手の出しようもない生命の数々に、おれは感謝する。

ありがとう。

そして、さようなら。

まさに核心ですね。コントロールはできない。

この本の最後に通じることなのでまとめて書きたいと思います。 

 

単行本あとがき

この本は新聞連載を単行本にしたものを文庫版にしたものなので、おまけが多くてお得な内容となっています。

この単行本あとがきでは元気な鉢植えについて綴られています。モミジ、コデマリ、クルミ、あんず、ローズマリー、木蓮、コーヒーの木、レモンポトスというそれぞれに物語を持った鉢植えが並んでいるようです。

育て方にもよるのでしょうが、仮にここに挙げられた植物は生存能力が高いと考えられないでしょうか?

私がダイソーで購入した中で順調に生き残っているのはコーヒーの木だけと言っても過言ではありません。水やりのタイミングが遅れて萎れてもすぐに回復するんです。現代社会ではコーヒーは日常的に消費されていますし、生存能力が高いから流通できると言えるのではないでしょうか?

だとしたら全国のベランダーが農家部を発足させて物産展とかできそうじゃないですか?

よく海外で巨大カボチャつくるみたいにコンテストとかやったりして。

面白そうだと思いません?

 

その後

友人の園芸家である柳生真吾さんから「バケツ稲」という育て方を教わったせいこうさんは、ASIAN KUNG-FU GENERATION後藤正文さんから20本の稲を貰い、ベランダに並べた衣装ケースに泥を入れて実践したそうです。

最終的に収穫することができ、ベランダ園芸に最も適したものが稲であることを知ったそう。その翌年には芝生を作り、稲作信仰や芸能について考えたと書かれています。

なるほど!だから年貢forYouなのか!

と、私の頭の中でコナンばりに電気が走りました。

 

文庫版のためのあとがき

この世に緑がなかったら。

つまり地球に葉緑体がなかったら、俺たちは生まれていない。

むろんそのかわり酸素を必要としない生命が俺たちの地球に生まれ、繁殖していたのかもしれないし、岩石だらけだったのかもしれない。ま、別に地球にとってはどうでもいいのだ。余計なことをする連中がいなくてありがたいくらいかもしれない。

ところが、緑が海に生まれてしまった。二酸化炭素を酸素に変えてブクブク泡を出す奴らが。ああ、なんと味わい深い偶然であろうか、諸君。それが植物として繁茂し、動物の発生を促した。今もって植物なしでは、我々は生きていくことが出来ない。

ベランダで風に吹かれる葉っぱを眺める時、俺は水やりの調子や剪定や防虫のことばかりを考えるのではない。こうして地球の、いや宇宙の生命それ自体の来し方行く末に思いを馳せたりもするのである。

最も狭い場所から宇宙を思う。

 ↓続けます

解説 「枯らす」ことは「看取る」こと   柳生真吾

人間が自然界や植物を意のままに操っているというのは大間違いで、それはきっとせいこうさんも心底から思っているんじゃないかと思います。だからがむしゃらに勉強しないんだと思います。真正面から植物の顔色を見て、自分で判断をする。そして失敗する。そして看取る。

普通だと「枯らす」ということは大きな失敗です。次へのチャレンジとなる。でも僕やせいこうさんにとっては枯らすことは失敗ではない。そこに大きな違いがあります。死なないペットはいないように、枯れない植物もありません。もしそれらが理不尽であるならば、もっと大昔にペットと園芸は禁止になっているはずなんです。でもそれがいまだにあるということは、「死ぬのを看取る」というのは人を成長させることなんだ、というように、人が伝えてきた知恵なのではないかと思います。

悲しくてたまらないようなお別れは、楽しくてたまらないような日々を過ごしたことの証なんです。いい思い出があるから、別れが寂しい。それは「上手に育てた」ということではなく、「一緒に右往左往したから」ということなんだと思います。

 文庫版の最後に書かれているせいこうさんと柳生さん、お二人の文章は実に深いですね。核心を突く部分を引用として書き出したのですが、さらに抽出して三段論法にしてみるとこうです。

  1. 人間は植物なしでは生きられない
  2. 植物はコントロールできない
  3. 植物はコントロールできないので人間は植物なしでは生きられない

だから、最初からコントロールできるはずのない植物が枯れる、或いは枯らしてしまうことは生命としての必然でもあるので、「上手に育てる」よりも広い視野であることが分かります。

おそらく誰もが最初は「上手に育てよう」と思って水やりや植え替えをしたり、添え木をしたりするのでしょう。それでも枯れていく植物から我々人間は、その不自然な社会形態の中で忘れかけている「自然」を学ぶのだと思いました。

 

「遺伝子組み換え技術」によって改良された植物や生き物の是非は、そして今後の在り方とは? - GIGAZINE

また、不自然な我々は遺伝子組み換えというキメラを大量生産しているわけで、これがどのような未来をもたらすのかを考えなければなりません。

 

植物は思った以上にハイスペックだった。植物による5つのコミュニケーション法 : カラパイア

例えば遺伝子組み換えによって、元来備わっているはずのコミュニケーション能力が無くなってしまったとしたらどうでしょうか?

昆虫はその植物を認知せず、ポリネーターの役割を果たさなくなるとしたら。

西洋文化が他国にもたらした影響力はとても大きいと思います。しかし、大雑把に言ってしまえば、ひたすら支配することしか考えてこなかったのではないかと思うのです。狩猟民族は武器に価値を置き、農耕民族は土地に価値を置きます。資本主義に目覚めた狩猟民族が土地を買い占めて、農耕民族を支配しているのが現代ではないでしょうか。

第193回国会議案情報:参議院

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今現在、この国では「種子法廃止法案」という食料自給率の根幹を揺るがす、大きな問題が国会で議論されています。

TPPからアメリカは脱退しましたが、二国間貿易で自国が有利になる条件を日本に飲ませるのがトランプの目的で、それを「はい!喜んで!ペロペロペロペロ!」というのがこの国では保守というわけです。植物はコントロールできませんが、人間は簡単に不自然なことを平気で行います。

もし、本当に自然を愛している人間ならば原発を爆発させて土地を汚染したり、アルプス山脈に穴を開けてリニアモーターカーを作ったり、ジュゴンのいる海のサンゴを潰して基地を作ろうだなんてしません。そんな人間が伝統や神社がどうのこうのと、保身の為なら天皇陛下からスーパーマリオまでなんでも利用する。

それに気づかない有権者もまた問題です。日本で採用されている投票用紙であるユポは森林保護を目的とするために開発されたそうですが、それによって選ばれた議員たちが森林を破壊するとしたら、どれだけ我々は愚かなのでしょうか。

たった一枚の葉っぱからどれだけのことを考えることができるのか。不自然な私たちは植物に試されているのではないでしょうか。

 

この本、めっちゃ面白かったです。