モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「絶望図書館/ 頭木弘樹 編」の感想

夢のコラボ本

本を買う時は面白そうだと思う作品をリスト化して、その中から本屋さんの店頭に並んでいるものを買うようにしています。たしかこの本はちくま文庫さんのTwitterで存在を知ってリストに書いておいたもの。

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本屋さんで手にとってこの赤い帯を見て、「なんという並びなんだ!」と若干笑いました。カフカ手塚治虫が並んでいて、安部公房の作品も入ってるだなんて絶望どころか夢のコラボレーションじゃないですか。あと、私は韓国文学を読んだ事がないのでこれもエッセンスとして良いなと思いました。時空も国籍も超えてくれる本はポテンシャル高いと思います。

「おとうさんがいっぱい 作 三田村信行/画 佐々木マキ

P21
二人のおとうさんは、背中を向けあって、紙にそれぞれ自分のりれきを書きはじめたーーまゆをしかめて、たいせつなことを記憶のなかからひきずりだすように。
みつめているうちに、ずうっと以前に、これと同じ光景にであったような気がした。これがはじめてではないという、あの感じ。

タイトルの通り、ある日突然にトシマ家の父タツオが3人に増えてしまうという物語。この現象は全国各地で発生し、なかには10人以上に増えた家庭も。政府は治安維持のため、分身した人間を番号で管理することを義務付け、分身が確認された各家庭に調査官を派遣します。
トシマ家ではショックで妻が倒れてしまい、主人公である息子のトシオが3人の中から1人を選ぶことになりました。
調査官は父親3人にどのような考えを持っていて、どのような家庭にしたいのかを持ち時間2分で息子に述べろと言い、1番の父親は愛情といたわりあう気持ちを、2番の父親はいたわりあう事と正直である事と我慢することの3本の柱を訴え、3番目の父親はこんなやり方納得できないと何も言いませんでした。
トシオはそんなの御構い無しに、調査票の裏側の白い部分にあみだくじを書いて1番の父親に決めたのでした。
2番と3番の父親は護送車に入れられ、別人として生きて行くことに。
物語のラストは平穏が戻ったある日、玄関のドアが開く音がしたのでトシオが見に行くと、自分と瓜二つの人間が立っているというオチ。

読みながら頭に浮かんだのは、先日テレビで放送された『映画クレヨンしんちゃん ガチンコ! 逆襲のロボとーちゃん』です。
この映画では家の中で居場所のない父親の悲哀と日本の家長制度の問題が描かれているのですが、そのギミックとして、ひろしの記憶をインプットされたロボとーちゃんが理想の父親を演じるという手法が使われています。おバカな演出もちゃんとあるので子供達が見ればくすぐられたように笑うでしょうし、大人が見るとSFとディストピアが入り混じった感覚が味わえる構造です。
キーとなるのが腕相撲。これって、父親と子供がよくやるスキンシップで、上の者が下の者を承認するものじゃないですか。当然、ロボットに人間が勝てるわけありませんから、最初はひろしが負けてしまいます。しかし、しんちゃんからしてみればそんな事をしなくても両方が父親なので、一方に肩入れする事はしません。この描き方が実に上手かった。(みさえは人間のひろしを愛しているけど)
そして映画のラストでは戦いでボロボロになったロボとーちゃんが最後にひろしと腕相撲をするのです。先ほども書いたように理想の父親像であるロボとーちゃんが、現実のひろしに「あとはお前に任せた」と承認するシーンで涙腺崩壊ポイントだったりします。
私はロボットが登場した時点で「あっ、この関係性は終わるんだな」と思ったので泣きはしませんでしたが、感情移入してこの作品を見た方はたまらないでしょうね。
まぁ、何が言いたいかというと『逆襲のロボとーちゃん』は『おとうさんがいっぱい』に似てますが、それを上回る完成度だということです。
『おとうさんがいっぱい』は、男性は増えても女性は増えていない点からし精子卵子の関係として見れなくもありませんね。そこに番号を付けて護送車に入れる感じはナチスの優生思想を想起させるには十分ですから、児童文学のディストピアとしては優秀な作品に思います。(大人になって気付く作品ってカッコいいし)

「最悪の接触 / 著 筒井康隆

P73
おれは憤然として立ちあがり、わめいた。「殺されてたまるか」
「なぜ、そんなに怒る」ケララもあわてた様子で立ちあがり、心から不思議がつている顔つきでおれを見つめた。「あなたはわたしに殺されなかったのだから、しあわせではないか」

地球人に興味を持ったマグ・マグ人が接触を望み、試験的にマグ・マグ人の代表と地球人の代表が一週間ドームの中で暮らす物語です。
主人公のタケモトはマグ・マグ人のケララと一週間共にする事になったのですが、ケララ棍棒で頭を殴られたり、毒の入った食事を食べさせられそうになったり滅茶苦茶な事をされます。そしてその「不幸中の幸い」を喜べというのです。タケモトが同じ事をケララにすると「何でそんな事をするんだ」と普通の態度を取るので始末が悪い…。この作品の特異な点は分からないものが分からないまま終わるところです。理解しようとすると気が狂ってしまうので、交易が開始された地球はパニックになり、タケモトが書いた報告書がマグ・マグ語に翻訳されて彼らの本土でベストセラーになったという終わりを迎えます。
けっこう難解な作品に感じますが、人間観察がベースにあって、ケララは自己中心的な態度を崩さずにタケモトの反応を見ています。いきなり怒ったり泣いたりする双極的な部分も含めて、『マグ・マグ人』のネーミングのルーツは「戸惑う」という意味の『ドグラ・マグラ』なんじゃないかと思いました。

「車中のバナナ/ 著 山田太一

P107
だから貰って食べた人を非難する気はないが、忽ち(たちまち)「なごやかになれる」人々がなんだか怖いのである。「同じ隣組じゃないの。我を張らないでさあ」などという戦争中の近所のおばさんの好意溢るる圧力を思い出してしまうせいかもしれない。

この作品は山田太一さんが、初夏に用事で伊豆に出かけて、鈍行で帰る3時間の間に車内で起きた出来事を綴ったエッセイです。
一言で言うとバナナハラスメントに尽きます。同席した40代後半の男性がその場に居た山田さんと老人と女性それぞれに話しかけて、バナナを配って食べさせるというバナハラね。(そんな言葉ないわ) ミカンハラスメントとか飴ちゃんハラスメントもあるかもしれません。
問題はそれを断った山田さんの事を老人が非難した点です。
私がこの作品を読んでいる今現在は天皇陛下の代替わりがあり、世間が『令和!令和!令和!』と馬鹿騒ぎをしている真っ只中にあります。私の経験上、ノストラダムスの大予言は訳わかんなかったし、2012年に地球は滅びなかったので、元号が変わるからといって山積するこの国の問題が解決するわけではないと考えます。なので世の中が、天皇を政治利用する最低な政治家達と、視聴率が正義の電波と、自分の頭で考えない同調圧力で一色に染まるのを薄気味悪い現象として、ドン引きしながら見ています。
未来はバナナの大食い大会なのです。

「瞳の奥の殺人/著 ウィリアム・アイリッシュ/訳 品川亮」

P131
やはりただの悪夢ではなかったのだ。この家には、ほんとうに人殺しがいる。マスクの隠し場所が移動している間、ミラー夫人の眼は片時も動きを止めなかった。狂ったようにヴェラから息子へ、息子からヴェラへと行き来し、ヴァーンの注意をけんめいに台所へ誘導しようとしていた。

この作品はかなり面白かったです。
主人公のジャック・ミラー夫人は車椅子で生活する事を余儀なくされ、自由に身体を動かしたり、会話をする事ができないので、目を使ったコミュニケーションをとります。
夫人と同居する息子のヴァージン・ミラーは愛想が良くて心の広い男性。その妻のヴェラは情欲と金銭欲にまみれた女性です。
この時点でうっすらとストーリーの輪郭が想像できるかもしれませんが、妻のヴェラが浮気相手(ジミー・ハガード)と共謀をして、夫のヴァーンを殺すという内容です。ミラー夫人は声を出す事ができませんから、いかにして危険が迫っている事を息子に知らせるのかというのが前半部分の見どころです。ここの面白さに関してはタワーディフェンスゲームっぽくて、いかに守るかという視点ですね。

一方、後半は息子を殺害されてしまったミラー夫人の復讐劇が描かれていて、いかに攻めるかという視点になっているのです。このメリハリのある構成はすごいと思いました。

P172
急ぐ必要はないわ。ゆっくりとあなたのペースで仕事をしてちょうだい。わたしの右腕、わたしの復讐の剣さん。言葉を発することなく、夫人はそう力づけた。

その入口になるのがヒッチハイカーとして現れたケイスメントという青年で、ヴェラとハガードは彼に夫人の面倒を看る仕事を与えます。彼は夫人が瞬きで会話している事に気付くと、それ以上のコミュニケーションを求めて辞書を取り出すのです。
「えっ?この人何者?」と思ったら、彼は刑事で潜入捜査をするためにやって来たというスパイ要素! 面白すぎやしませんか?笑
「スパイもの」として見たら夫人とのコミュニケーションは暗号解読なんですよ。違和感なく進んでいきますし、途中にある、疲れたケイスメントを夫人が優しい眼差しで見ているというシーンも良い。瞬きで会話ができた時の嬉しさだったり、亡くなった息子との思い出や自分だけ生き残ってしまった悲しみが包括されたシーンに感じました。
結果的にヴァーンをガスで殺害する際に使用されたガスマスクの処分がカギになり、ケイスメントは見事にハガードとヴェラを逮捕します。犯行の手順に関しては物語の冒頭で、ハガードがヴェラに説明するシーンで書かれていますから、変なややこしさはありません。(犯人が誰なのか分かっているコロンボっぽい描き方です)

P181
空は青く、太陽はあたたかかった。夫人の眼は彼を見つめて、やさしく輝いた。人生に欠かせない三つの生きがいが、また戻ってきたのだ。

そしてラストがハッピーエンドなのでサスペンスでありながらも読了感がとても良い。70ページぐらいあったのですが、とても読みやすかったし構成の力を見せつけられました。

「漁師と魔神との物語(『千一夜物語』より)/訳 佐藤正彰」

この話はイスラム圏に伝わる作品という事もあって、私には史実か何かに例えたオチを理解する事ができませんでした。
かいつまんで内容を書くと、1日に4回しか網を投げない漁師の網にロバの死骸と、泥が詰まった土がめと、割れた壺がかかり、最後にアッラーを讃えて網を投げると真鍮の大きな壺がかかります。
この壺の中には、自分を助けてくれた人間にお礼として願いを叶えてやろうと救助を待っていたけど、誰も助けてくれないから、助けてくれた人間を殺す事にしたけど死に方は選ばせてあげるんだぜ的な闇堕ちした魔神が詰まっていました。笑
漁師は頭を使って、本当に魔神なのか確かめたいから一度壺に戻ってくれないかと言って、魔神は壺に戻って再び封印されるという…。笑
太古のギャグに感動。
読んでいて頭に浮かんだのは、星新一さんの作品にもランプと釣りの組み合わせのショートショートがあった事。(大金の重みで氷が割れて強欲な釣り人は沈む)
あとはウィルスミスね。
実写版「アラジン」のジーニーが「青いウィル・スミス」だと話題な予告編公開中 - GIGAZINE
ウィルスミス、ピカチュウソニックと、最近の映画はぶっ飛んでて付いていけません。笑

「鞄/著 安部公房

P200
「ぼくの体力とバランスがとれすぎているんです。ただ歩いている分には、楽に搬べるのですが、ちょっとでも急な坂道だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことの出来る道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、ぼくの行先を決めてしまうのです。」

半年前の求人広告を訪ねて青年がやってくるところから物語は始まります。青年はくたびれた服装でありながらも、正直そうな顔つきをしていたので、求人広告を出した主人公は「なぜ今頃になってやって来たのか?」と理由を尋ねました。
上記引用文はそれに対応する青年の答えです。ここだけ読むと「風が強くて遅れました」「どうせならもっとまともな嘘をつけ」みたいなやり取りに感じられますがこの後の展開が深いです。
鞄に関して主人公は「無理をすれば赤ん坊の死体が3つぐらい入る大きさ」と表現していて、中身については「大したものじゃない」「つまらない物ばかり」と青年は話します。
主人公は青年を雇う事にして、知り合いに電話して下宿の手配もしました。青年が下見に出かけたので、残された鞄を持ち上げてみたところ、持てない重さではないにしろズッシリと重く、試しに事務所の周りを散歩してみたところ全く青年の言う通りに上り坂を歩くことができなくなり、道を引き返すこともできなくなって、自分が何処を歩いているのかさえ分からなくなってしまいます。

P204
べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

鞄が意味しているのはこれまでの人生であって、大きさを赤ん坊で例えた点からして、主人公には3人の子供がいるのかもしれません。
その鞄を持つと上に戻ることが難しくなるというのは社会的地位やカーストを指すのではないでしょうか。
求人広告は未来であって、未来が確保できたから青年は過去(鞄)をひとまず置く事ができたのだと思います。
「強制されているのか?」といえばそうではなく、自発的にやっていて、いつでもやめられると青年は言っています。
私は「人間は自由の刑に処されている」というサルトルの言葉を思い出しました。
労働者は社会の制度設計やドレスコードによって、選ぶ事のできる選択肢が限られています。それでも自分から未来を掴み取りに行く事で現状を打開できるという考え方はまさに実存主義だと感じました。
わずか6ページの作品でありながらも、ラストの文章のカッコよさがたまらなく、頭の中にエンディングロールが流れる感覚に襲われました。

「虫の話/著 李清俊/訳 斎藤真理子」

まず、内容に触れる前に「虫」というタイトルからして虫が出る小説なんだろうと思ったのです。私はどちらかといえば虫が好きだし、初の韓国小説という事でワクワクしていたわけです。
ところが虫も出なけりゃ、これまでの6作品の中で一番後味が悪い!
流石は絶望図書館です。

主人公は薬局を営む夫婦で、妻が40歳近くのときに息子を授かります。
息子はアラムという名前で、片足が不自由なうえに常に用心深く物静かで、近所の友達とは遊ぶ事もしませんでした。趣味はありませんでしたが、成績に関しては上位で小学4年生の時に初めて自分から珠算クラスに入ります。この行動に両親は喜んだのですが、ある日彼は行方不明になってしまいます。
母親は父親が驚くほどの行動力で息子の捜索活動を行い、それが「アラム探し運動」へと発展したり、宗教へのお布施もしたりしました。
しかし、それも虚しく2ヶ月と20日後にそろばん塾の側にある建物の地下室の床下で変わり果てた姿のアラムが発見されるのです。
前半はこのようにファインディング・ニモ』でサメに喰われてバッドエンドを迎えるような展開です。わりと現代社会で見かけるような事件なので、読んでる間、心が痛みました。また、アラムには友達が居なかったので放課後に何があったのかが分からないという地味に辛い演出があって、この作者のイジワルさを感じました。
さらに後半では最愛の息子を亡くした母親と、犯人であるそろばん塾の塾長と、宗教が絡み合った絶望が描かれます。
キーパーソンとなるのは夫婦が営む薬局の近くで布団屋を営むキムという女性。この人は教会で執事をやっていて、アラムが行方不明になった時から母親の相談相手となっていました。息子を亡くして食事もままならない母親を毎日励ましに訪れて、ようやく母親が立ち直ったかに見えたのですが、死刑囚となった塾長を赦すために勇気を出して面会に行くと、彼は牢獄の中で罪を懺悔し信心に目覚め、復讐を受ける覚悟もあり、死後に腎臓と両目の提供をする約束もしていたのです。

P245
ーー私、奥さんが理解できません。いえ、むしろ失望せざるをえませんでした。奥さんは心の中でまだ彼を許せていないのだとわかったのでね。奥さんにはまだ主への信仰が不足しているのです。

「彼と奥さんは同じエホバの愛の中に生きる息子と娘になったんだから、彼を赦せないなんて失望したわ。信仰が不足してるわ」というのが布団屋理論です。
最愛の息子を失った母親にとっての『救済』は、他人の力を借りて自分の中の認知を変える事で、マイナスからようやくスタート地点に戻ったぐらいの力しかありません。一方で塾長にとっての『救済』は自らの罪を受け入れたうえで罪を償うというものです。
トラウマが無いだけ加害者のほうが復帰の速度が速いのかもしれませんが、被害者側はどうしても感情的にならざるを得ませんし、その目の前で塾長が満たされたような顔つきでいるなら、なおのこと赦せない気持ちがあっても仕方ありません。
それを布団屋がバッサリ切るという無慈悲な一言はエグい。(ちなみにこの作品に出てくる宗教はキリスト教ですから隣人愛の話ですね)
そして、再び妻は食事が喉を通らない状態になり、運悪く塾長が絞首刑にされる時のニュースをラジオで耳にしてしまいます。塾長は最期に「お子さんの魂と共に御国で被害者家族のために祈ります」という趣旨の一言を残し、それを聞いた母親も服毒自殺をして物語は終わります。

感想としては塾長と布団屋がサイコパスすぎた事と、ストーリーテラー役の父親が布団屋に任せすぎた事。あとは法制度から見た時にも、加害者の社会復帰というのは万国共通の問題だと思うし、どうやって折り合いをつけるのかは現在の殺伐とした世界をより良くする鍵に思いました。
本当に一生の罪を背負って生きると覚悟したのか、それとも罪の概念を消すために宗教を隠れ蓑にしてるのかは外見では分かりません。有言実行の生き様でしかそれを示す事はできませんから、死刑囚を評価するには時間が短いのです。

ある人達にとっては全てを超越する宗教であっても「まぜるなキケン!」を躊躇なく混ぜるところに危うさを感じました。

「心中/著 川端康成

P262
(お前達は一切の音を立てるな。戸障子の明け閉めもするな。呼吸もするな。お前達の家の時計も音を立ててはならぬ。)
「お前達、お前達、お前達よ。」
彼女はそう呟きながらぽろぽろと涙を落した。そして一切の音を立てなかった。永久に微かな音も立てなくなった。つまり、母と娘とは死んだのである。
そして不思議なことには彼女の夫も枕を並べて死んでいた。

川端康成ってこんな感じの作風でしたっけ?
妻を嫌って離婚した夫から、子どものゴム毬の音がうるさい等という趣旨の手紙が届き、妻はそれに従って子どもを制限していきます。その結果が引用文のオチになるのですが、わずか2ページのショートショートでありながらも闇が深い作品ですね。個人的には好きです。(家長制度はクソですが)
夫は妻を嫌っていますが、妻は夫への愛を証明するために我が子を手にかけるという歪みがあります。しかし、この歪みは夫も同時に離れた場所で死んでいるという「数奇な運命」として描くことで、表面的な嫌悪感を消していますね。
腐ったゾンビ肉を塩麹に漬け混んで、胡椒を振って燻製焼きにして召し上がれ的なクッキングです。さすが皮バター先生なのです。

「すてきな他人(ひと)/著シャーリイ・ジャクスン/訳 品川亮」

夫のジョン・シニアが出張にでかける前に夫婦ゲンカをし、妻のマーガレットは2人の子どもの面倒をみながら、夫が帰宅するまでの一週間を嫌なことを忘れる時間にあてました。
一週間後に駅に向かうと、夫のジョンが現れ、とくに会話を交わさないまま車に乗り込んで家に到着します。その時に夫が長男の話に耳を傾けている姿を目にし、夫が別人である事に気付くのです。そして男もまたマーガレットがそれに気付いた事に。(始まったか…ゴゴゴゴゴ)

P275
「二人のものが必要だよ。二人とも好きなもの。小さくて繊細でかわいいもの。象牙とか」
これで相手がジョンだったとしたら、そういう小さくて繊細なものを買う余裕なんてうちにはない、とすぐさま言い立ててやりたくなったことだろう。そんな思いつきには冷たく終止符を打ってやるのだ。でもこの他人には、「ちゃんと探さなきゃね。なんでもいいってわけじゃないんだから」と彼女は答えていた。

子どもを寝かし付けた後に、偽ジョンがマーガレットの好きなカクテルを用意してリビングで待っていてくれた事にときめいてしまったマーガレットは「ジョンはこんな事してくれない。あいつはオワコンだ。偽者が本物なら良いのに」と思うようになり、本物が帰ってきて彼を追い出す事を悪夢に感じるようになります。どうにかこの現実を繋ぎとめようと子ども達をベビーシッターに任せて、彼のためにプレゼントを買いに走りました。

P281
きびすを返して、家に向かって歩き始めた。ふと立ち止まり、ちょっと行きすぎたかしら? そんなはずないけど、と考えた。おかしいわ。うちの壁って白かったかしら?
すっかり日が暮れていた。どこまでものびる住宅の列だけが見えた。列の向こうにも列があって、その向こうにはもっと列がある。そのどこかに彼女の家があった。中にはすてきな他人がいて、彼女はひとり外で途方に暮れていた。

これは優秀なオチですね。パートナーが他人に入れ替わる舞台装置は倦怠期を表現しているのだと分かります。そしてこのオチからして、偽ジョンはベビーシッターに子どもを任せて何処かに行ってしまったマーガレットに嫌気がさしてしまい、恐らく別人のマーガレットが彼の前に現れる事を匂わせた終わり方をしています。先ほどの安部公房の『鞄』と似た不思議さというか、『世にも奇妙な物語』っぽい感じが良かったです。(昔話でいえば浦島太郎的な現実と幻想ですね)

「何ごとも前ぶれなしには起こらない/著キャサリン・マンスフィード/訳 品川亮」

P303
子どもの頃の記憶はお持ちだろうか? "すべて"憶えていると断言する作家たちが書いた不思議な話も数多い。しかし私はちがう。暗闇に覆われた空白の部分のほうが、明るい風景の断片よりもはるかに大きいのだ。私はまるで、食器棚の中に置かれた植物のように子ども時代をすごしたようだ。ときおり陽が出ると、ぐいっと乱暴に窓際に出され、またぞんざいにさっとしまわれるーーそれだけだった。

この作品は先ほどの作品とは反対に、夫の視点から妻への愛情の変化を描いた作品になります。夫が作家関係の仕事をしている設定のせいか、文体は詩的表現と比喩表現のオンパレードで私には難読なうえに解釈があっているのか自信がありません。
「夢なのに夢じゃなかった」とか「肉なのに肉じゃない」とか言われたら、「つまりどういう事?」と言いたくなるのが普通です。この作品ではそれを見越したうえで「どうして妻に対する愛情が変化したのか?」という理由が後半の昔話で語られます。そして、何処かのそろばん塾で見たような父親が薬局を営んでいる設定が登場。さらにその父親が母親を毒殺し、若い娘とキャッハウフフ。それを見てしまった主人公の中で孤独が目覚めます。
つまりは妻が変わってしまったのではなく、今に至るまでこの世界の何処にも理解者が居ない事と、幼少期の自分が嫌いだった父親に自分自信が似てきている事に絶望しているわけです。遺伝という呪いですね。
P303ページの引用文が宇多田ヒカルさんの『真夏の通り雨』の「思い出たちがふいに私を乱暴に掴んで離さない」すぎたのでここで一曲。

宇多田ヒカル - 真夏の通り雨 - YouTube

「ぼくは帰ってきた/著 フランツ・カフカ

2ページの短い小説というか、散文に近い作品で、夢に破れて都会から地元に帰った若者の気持ちが描かれています。
分かる人だったら、辛い記憶や苦い思い出を引きずり出される可能性があるので注意です。
すごろくで「ふりだしに戻る」が出た時に、何の逆転要素もない状態はクソゲーです。人生が消化試合と化した時の空虚さは言葉にできません。だからきっとカフカは人間ではなく、空間や物に語らせているのでしょう。

「ハッスルピノコ(『ブラックジャック』より)/著 手塚治虫

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私はブラックジャックをほとんど読んだ事がないので、ピノコが嚢腫から生まれただなんて初めて知りました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%2594%25E3%2583%258E%25E3%2582%25B3

内容は学校に行きたいピノコが悪戦苦闘するお話です。見た目も話し方も幼児なのに、実は19歳の彼女が純粋に学校に行きたいと願うことに心を打たれました。
男性社会における女性に対する見えない不平等を「ガラスの天井」と言いますが、概念を制度に反映するためには言葉を適切に定義づける必要があります。肌の色も性別も関係なく、困難な状況に陥った人々に対しては差し伸べられる手が必ず存在すると私は思います。
ただ、ピノコの場合は「人間ではない」という烙印を押された時に絶望しかありません。そんな彼女に手を伸ばす無免許医師のブラックジャックの懐の深さを感じずにはいられません。
それにしても手塚先生は何という設定を思いつくのでしょうか…。命を動かす事に見境いがないというか、医師とクリエイターの2つの眼差しが際立っていますね。

おわりに

「厭な物語/A.クリスティー他」の感想 - モブトエキストラ
去年の4月に読んだ『厭な物語』よりも確実に面白かったです。
まず、一つ目はコンセプトがしっかりしていた事。

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図書館のドアには利用できる曜日のお知らせだとか、飲食禁止といった貼り紙があるものですが、このアンソロジーでは『絶望図書館 ご利用案内』というページが設けられていて、雰囲気を醸し出すとともに趣旨説明があるのです。
二つ目は名前負けする作品が無かった事。これが一番大切なところで、同じジャンルであっても角度の違う作品を並べて差異を見せる構成になっています。多くの作品を知っていなければできない事ですし、頭木さんの作品選びのアンテナと構成力の巧みさが現れていると思います。
美術館や博物館はコンセプトと展示物で知的好奇心をくすぐる空間ですが、アンソロジーは文学を展示する空間だと私は思うのです。その意味でこの本は上手いと感じました。
ただ、『虫の話』というタイトルでありながら昆虫が出てこなかった点はとてもガッカリしました。寿司屋に行ったら寿司が出てこないとか、ピザ屋でピザトーストさえ出てこないようなものです。
一体何が虫なのか。ヨハネの黙示録のイナゴ的なことなのか。私には分かりません。

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P344では番外編として、頭木さんが収録しようと思ったけど見つけられなかった作品(図書館を舞台にした悲劇。好きな男性に愛を証明するため、女性が餓死するまでノートに愛を綴る)が紹介されていて、タイトルも分からず著者名も分からないので分かる方がいればTwitterなどで教えて下さいと書かれていました。残念ながら私も分かりません。『ブックジャングル』という作品が思い浮かびましたが違うしなぁ。(絶望図書館からはぐれた作品の絶望ったらもうね)
もし、この記事を読んでくれた方でたまたま分かる方がいれば頭木さんに教えてあげて下さい。『希望図書館』というアンソロジーが出版されるかもしれませんし。

(おわり)