モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「金子みすゞ名詩集(彩図社文芸部編纂)」の感想

偶然の出会い

「コンビニ人間/著 村田沙耶香」の感想 - モブトエキストラ
先日本屋に行った話を『コンビニ人間』の前段で書きましたが、その際に購入した2冊目の本が今回の『金子みすゞ名詩集』です。
金子文子が呼んでいる | web岩波
本当は高橋源一郎さんとブレディみかこさんが絶賛する「金子ふみこ」に関する本を目当てにしていたんですが、残念ながら見当たらなくて、悲しすぎて監視カメラの前でブレイクダンスを踊る私の前に現れたのがこの詩集でした。(踊ったとこは冗談です)
私はこれまでに詩集を読んだ事がほとんどなく、読んだ事があるのは相田みつをさんとボードレールぐらい。今でこそ読書をしますが、詩って好き嫌いがハッキリ分かれるジャンルだと思うんです。気体みたいなフワフワした文章は読み応えがないし、空は飛んだけど爆発する前に終わる花火みたいな不完全燃焼があったりして、自分に刺さる言葉に出会うまでが難しい。それに今の社会は、とにかく言葉が短縮されていて、規則性の中で自由を競う俳句のほうが好まれているようで、オススメの詩を取り上げるメディアも目にしません。なかには詩という形態そのもので悪ふざけするような「あたりまえポエム」なんてものがあったり、ヤバい会社が社員を洗脳するために壁にヤバい詩を貼り出したり…。(これはブラックポエムだね)
スタンダードも分からなくなって、一部の人々だけが楽しみ、地雷の平原へと姿を変えた「詩」という形態の原生林を知る良い機会。金子繋がり、同じ女性という事で金子みすゞさんの詩集を購入。

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表紙はデニムの青が冷めたような水中を背景に、フェルト生地の金魚がビーズの泡をプクプクと出している絵です。

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カバーを外すと、金魚というかオタマジャクシに見えなくもない絵があったりして。
ここからは収録されている93作品の中から、気になったものをピックアップして感想を書いていきます。

金子みすゞ名詩集』の感想

「私と小鳥と鈴と」


私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

 

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんの唄は知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

まず、ページをめくって最初に出会った作品は「私と小鳥と鈴と」です。
この作品については、小学校の教科書に載るレベルに有名であって、多くの人々に愛されている作品だと思います。なので改めて書き出す事はしませんが、93作品全てを読み終えてから、再びこの作品を読むと、その完成度の高さに気付かされます。

「大漁」
朝焼小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ。

 

浜は祭りのようだけど

海のなかでは

何万の

鰯のとむらい

するだろう。

「私と小鳥と鈴と」の次に収録されているのが「大漁」です。
夜中に出港した船が大漁の鰯を持って、朝焼の浜でキラキラ光っている情景が浮かびます。後半はその命に手を合わせ、祈るような目線で綴られていて、地上と海中の異なる世界を行き来しているのが分かりますね。

「お菓子」
いたずらに一つかくした
弟のお菓子。
たべるもんかと思ってて、
たべてしまった、
一つのお菓子。

 

母さんが二つッていったら、

どうしよう。

 

おいてみて

とってみてまたおいてみて、

それでも弟が来ないから、

たべてしまった、

二つ目のお菓子。

 

にがいお菓子、

かなしいお菓子。

「大漁」の次にあるのが「お菓子」という作品。弟のお菓子を食べてしまって後悔する内容です。その最後は「にがいお菓子、かなしいお菓子」で終わります。
私はこれを読んでMr.Childrenの「Candy」のリリックを思い出しました。
「ほろ苦いキャンディが、まだ胸のポケットにあった。気づかせたのは君」って。

「土」
こッつん こッつん
打(ぶ)たれる土は
よい畠になって
よい麦生むよ。

 

朝から晩まで

踏まれる土は

よい路になって

車を通すよ。

 

打たれぬ土は

踏まれぬ土は

要らない土か。

 

いえいえそれは

名のない草の

お宿をするよ。

この作品も「大漁」と同じように、人間の生活を見せたうえで自然が見える構成になっています。核となるメッセージは、人間にとって役に立つかどうかとは別に、自然の循環には無駄なものが無いというところ。
昨今の日本では「生産性」という言葉で他人を判断する優生思想の政治家が出てきたり、障がい者施設で凄惨な事件が起こったり、一般人でも口癖のように「コスパ」という言葉を使ったり、心に余裕が無くなって無意識の内に感染する危うさを感じます。
だから余計に、この作品に流れる感性と懐かしさにこうであって欲しいと思いました。
あと始まりの「音を視覚化してる」ところも良くて、現代には同じように農具を使って音楽採集してるBibioというアーティストがいます。面白いのでご覧あれ。
Bibio - Sampling in the garden... - YouTube

「不思議」
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

 

私は不思議でたまらない、

青い桑の葉たべている、

蚕が白くなることが。

 

私は不思議でたまらない、

だれもいじらぬ夕顔が、

ひとりでぱらりと開くのが。

 

私は不思議でたまらない、

誰にきいても笑ってて、

あたりまえだ、ということが。

この作品はテンポ感を交えて、こんなに世界は不思議なのに誰も教えてくれずに、知ったかぶりができた時に大人に成るというような、探究心と窮屈さが同居している感じがします。
確証バイアスもあるのでしょうけど、金子文子の本を求めて「この詩」に出会うというのは、なんだか偶然とは思えませんでした。

「蜂と神さま」
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀(どべい)のなかに、
土塀は町の中に、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。

 

そうして、そうして、神さまは、

小ちゃな蜂のなかに。

大自然を抱きしめる感じがたまりません。
一寸の虫にも五分の魂とか、神は細部に宿るという言葉が頭に浮かんで、最後に残ったのはPeople In The Boxの『かみさま』
People In The Box「かみさま」Music Video - YouTube
金子みすゞさんに聞いて欲しいわ。

「つばめ」
つういと燕がとんだので、
つられてみたよ、夕空を。

 

そしてお空にみつけたよ、

くちべにほどの、夕やけを。

 

そしてそれから思ったよ、町へつばめが来たことを。

この詩はつばめが飛んで、視線が夕やけに移って、それからつばめを認識するという一瞬の出来事を詩にしたもので、「黒い影」とか「何か」ではなく「燕」と漢字で書いて表現しているのが面白いです。つまりは、無意識の状態につばめが飛んで来たという事。
特筆すべき点はその視線の移り変わりを「燕」→「つられてみた」→「夕やけ」→「つばめ」と韻を踏んでるんですよ。
これは拍手喝采。素晴らしい。

あと、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「君の街まで」の情景にも似てるなぁと感じました。夕やけって良いですよね。
ASIAN KUNG-FU GENERATION 『君の街まで』 - YouTube

「雀のかあさん」
子供が
子雀
つかまえた。

 

その子の

かあさん

笑ってた。

 

雀の

かあさん

それみてた。

 

お屋根で

鳴かずに

それ見てた。

我が子が子雀を捕まえて喜ぶ姿を見て笑顔になる母親と、我が子が人間に捕まって立ち尽くす母雀。
「大漁」と同じように、ここにも人間の世界と自然それぞれの視点で見つめる目が存在していて、日常の中にあるグロテスクが表現されているように感じます。
金子みすゞさんに負けじと、さりげなく視点自然で韻を踏んだ事に気付いてくれたらありがてぇ)

「夜ふけの空」
人と、草木のねむるとき、
空はほんとにいそがしい。

 

星のひかりはひとつずつ、

きれいな夢を背(せな)に負い、

みんなのお床へとどけよと、

ちらちらお空をとび交うし、

露姫さまは明けぬまに、

町の露台(ろだい)のお花にも、

お山のおくの下葉にも、

残らず露をくばろうと、

銀のお馬車をいそがせる。

 

花と、子供のねむるとき、

空はほんとにいそがしい。

ここまで、朝と夕の詩が載っていましたが、この作品は夜の詩です。
ふつう場面設定を夜にした場合、ほぼ100%と言っていいぐらい「月」というワードが使われると思うのですが、この作品には出てきません。「流れ星」が落ちるのを、「銀の馬車」に乗った露姫が草花に潤いを届けるという比喩表現がされています。
露があるという事は当然ながら外気は冷たいはずです。なのに作品からはその冷たさを全く感じません。月の光も使わずに温かさを表現するなんてスゴイ人だなぁと。
「月のない冷たい夜 私は星を見ていた」と書くのと大違いです。

「硝子と文字」
硝子は
空っぽのように
すきとおって見える。

 

けれども

たくさん重なると、

海のように青い。

 

文字は

蟻のように

黒くて小さい。

 

けれども

たくさん集まると、

黄金(きん)のお城のお噺もできる。

人間界と自然界の往来ではなく、この作品では物体と空想の往来があります。
考えてみると、ステンドグラスと宗教、点描画やドット絵も、現実から空想へと運ぶ装置ですよね。
アパルトヘイトやゲットー、日系人収容やハンセン病患者に対する隔離政策は論外ですが、作品を作る際に条件や縛りがあると「自由」が独特な進化を遂げる事は良くあります。
例えば「進撃の巨人」の諌山先生は、山に囲まれた故郷をベースに、壁に囲まれた世界の漫画を描きました。(ちなみに巨人が人間を食べるアイデアジュラシックパーク地獄先生ぬ〜べ〜の人喰いモナリザが発想の原点だそうです)
金子みすゞさんの作品にも「壁」を感じる瞬間があって、だからこそ世界を広くするために分解して見る目が養われたのだと私は思います。

「土と草」
母さん知らぬ
草の子を、
なん千万の
草の子を、
土はひとりで育てます。

 

草があおあお

茂ったら、

土はかくれて

しまうのに。

「土」という詩では余分なものが存在しない事が描かれていましたが、この作品では土の母性が詩になっています。
田んぼに力と書いて「男」とするように、農業も父性で語られる事が多い気がします。(鉄腕DASH!の登場人物ほとんど男性だしね)
「土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて / 著 藤井一至」の感想 - モブトエキストラ
「100億人を養う土壌を求めて」を思い出しつつ、金子みすゞさんの感性と着眼点の凄さを感じました。

「雪に」
海にふる雪は、海になる。
街にふる雪は、泥になる。
山にふる雪は、雪でいる。

 

空にいる雪、

どォれがお好き。

降る場所によって形を変える雪を詩った作品で、先ほどの「不思議」に通じる作品ですね。それに、最後の「どォれがお好き」には人間っぽさがあって、しんしんと降る雪と会話してる情景が浮かびます。
あと関係ないけど、「海に降る雪」というコブクロの曲では、恋に破れた男が記憶を『溶かしてくれ!』と歌ってるのでバーナーで炙ってあげて欲しい。
「こォれがお好きなんでしょー!」
「アッー!!」
↑SMポエム(笑)

「星とたんぽぽ」
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。

 

散ってすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は眼にみえぬ。

       見えぬけれどもあるんだよ、

       見えぬものでもあるんだよ。

この作品を読んだとき、恐ろしいほどサン=テグジュペリの「星の王子様」に似てるなと思いました。ストーリー的には星に咲いた一本のバラとは別に、世界には同じ姿形のバラがあって、そこから個性を大切にしようという流れになるわけですが、「星とたんぽぽ」のタンポポタンポポでありながら群生はしてないうえに枯れているというのが特徴的だと思います。
「星の王子様」の中には「心で見ないと物事はよく見えない。大切なことは目に見えないんだよ」というセリフがありますが、その通りに金子みすゞさんは世界を心で見ていたのでしょうね。

「墓たち」
墓場のうらに、
垣根ができる。

 

墓たちは

これからは、

海がみえなくなるんだよ。

 

こどもの、こどもが、乗っている、

舟の出るのも、かえるのも。

 

海辺のみちに、

垣根ができる。

 

僕たちは

これからは、

墓がみえなくなるんだよ。

 

いつもひいきに、見て通る、

いちばん小さい、丸いのも。

この作品の他にもお墓をテーマにした作品が幾つかあるのですが、その中でもこの作品は墓石=故人という見方をしていて、「私のぉ〜お墓の前でぇ〜泣かないで下さぁい〜♪」とは水と油だなと感じました。(「千の風になって」という曲名より歌詞の方が分かりやすいでしょ)
あと思ったのが、3.11の被災地にできた巨大な防潮堤。海というアイデンティティとの繋がりが断ち切られる切なさが、この作品と重なりました。
ただ、後半の「僕」が誰なのかがイマイチ分かりません。今は赤ん坊である、故人の孫の視点かなぁと解釈したり。
無縁仏にまで手を合わせ、生命賛歌を理解できるほど成長した孫に米津玄師の「海の幽霊」を教えたい。
米津玄師 MV「海の幽霊」Spirits of the Sea - YouTube

「まつりの頃」
山車(くるま)の小屋が建ちました、
浜にも、氷屋ができました。

 

お背戸の桃があかくなり、

蓮田の蛙もうれしそう。

 

試験もきのうですみました、

うすいリボンも購(か)いました。

もうお祭がくるばかり、

もうお祭がくるばかり。

この作品の前に「四月」という作品があって、それは自然界の生命が活発になる春にリンクして、人間世界も新しい事が始まる。そしてそれを祝う詩で、最後に「うれしい四月」という一説があるんです。ここまで私が読んできて、金子みすゞさんは世界と会話している作風だから、自身がどう感じたのかを直接描いている作品がわりと少ないです。親族との出来事を詩にしても、主観的というよりも幽体離脱をして少し遠くから見ている感じがするんです。
そんな中で「まつりの頃」は自身の感情を直接書いてはいないけど、試験が終わってリボンも買って、「あとは祭りがくるばかり」と強調して『いつでも来いやぁぁぁ!』という本心が見えるのです。
「蛙もうれしそう」って言ってるけど、それ以上に自分が嬉しいっていう。それをわざと書いてない。

「こおろぎ」
こおろぎの
脚が片っぽ
もげました。

 

追っかけた

たまは叱って

やったけど、

 

しらじらと

秋の日ざしは

こともなく、

 

こおろぎの

脚は片っぽ

もげてます。

一番ユニークだったのがこの作品。
5.7.5で流れを作るテクニックを披露しつつ、「もげてます」と読者に向けたメッセージになっている。笑
秋のとある日に、自切してまで生き延びようとしたコオロギに主演昆虫賞、そして猫のたまに助演動物賞を贈りたいです。

「蚊帳」
蚊帳のなかのわたしたち
網にかかったお魚だ。

 

青い月夜の青い海

波にゆらゆら青い網。

 

なんにも知らずねてる間(ま)に

暇なお星が曳(ひ)きにくる。

夜の夜なかに目がさめりゃ

雲の砂地にねていよう。

蚊帳の中に居るだけなのに、こんなにメルヘンチックな詩が書けるなんて感動します。目が覚めていても夢が見れるのですから。
金子みすゞさんに『水曜どうでしょう』のロケに同行してもらって、生意気な大泉洋さんが酷い目に遭っているのを詩にして欲しいです。
前半の「蚊帳(a-a)」「お魚だ(o-a-a-a-a)」で踏みつつ、「海(u-i)」「波(a-i)」「網(a-i)」のラインは全韻ではないものの、連想として綺麗。
ただ、夜の夜中という言い方に違和感をを覚える人もいるかもしれない。
流れ星が網にかかった人々を空に連れ去ってくれるという風景なので、私は夜の概念も無くなる「大気圏」を「夜の中」と表現したのではないかと解釈します。

「箱庭」
私のこさえた箱庭を
誰も見てはくれないの。

 

お空は青いに母さんは

いつもお店でせわしそう。

 

祭りはすんだにかあさんは

いつまであんなに忙しい。

 

蝉のなく声ききながら

私はお庭をこわします。

作品ができたのに、いつも母親は忙しく、まともに相手にしてくれない。自己肯定感は萎んでしまって、自分の手で作品を壊すという『孤独』がテーマになっている詩です。
私にはこの壊す気持ちがよく分かります。
お父さんが昔したためたゲームの攻略メモが「魔導書」「ヴィオニッチ手稿」と言わしめるほど緻密すぎて書籍にしたいレベル…! - Togetter
例えば、若い頃に鉄道模型が趣味だった人の子供が大人になって、親の作品を発見したり、謎のメモがゲームの攻略メモだったりという事が実際にあります。これって物理的に保管されてるから発見されるわけですよね。でも、オンライン上でデータ化された作品の多くは著名人でもない限り、その媒体がサービスを終えたら消えてしまいます。
何が言いたいかというと、目の前にいる人に無視される孤独の中に居たとしても、物理的に作品が残っていれば再評価or死後評価される可能性があるけど、私がこうやってオンライン上で今書いてる文章も含めて残らない可能性が大きいという事。
自分で作品を壊したとしても、素晴らしい作品であればそれを拾い集めようとする人間が必ず居ます。でも、データの消去は破片も残りません。
『not 404 found』という名前の孤独です。

「星のかず」
十(とお)しきゃない
指で、
お星の
かずを、
かずえて
いるよ。
きのうも
きょうも。

 

十しきゃない

指で、

お星の

かずを、

かずえて

ゆこう。

 

いついつ

までも。

この作品は最後に収録されている作品です。
毎晩、夜空の星を数えて、それが楽しみでたまらないというのが伝わってきます。
一方で、これは金子みすゞさんが星と会話をして、新しい詩ができる瞬間を切り取った詩のようにも思います。
好きな事であっても必ず飽きる時って来ると思うんです。自分の中でパターンが分かって「こんなもんか…」と見切りを付けたり、「やっている意味あるんだろうか?」とか。 続ける事って、大変なんですよね。それでも、この作品では「星の数をかぞえていこう」って静かに誓っているんです。
つまり、星と会話し続ける事を自分へ誓っていて。
見上げていた夜空はどれほど綺麗だったのでしょうか。

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そして、最後のページがこちら。

この「26歳でこの世を去る」という一文に、なぜか若干泣きそうになりました。
何故でしょうね?
1903年に生まれたのなら自殺せずとも現在は存命ではない。どちらにせよ、私が生きている世界には金子みすゞさんは存在していないはずなのに。

おわりに

全93作品の中から20作品の感想を書きましたが、これ以外にも「小さなうたがい」では『女のくせにって叱られた』という性差別や、「こぶとり〜おはなしのうたの一〜」ではこぶとり爺さんのその後を描いていたり、それぞれに味がありました。
よく思うんですけど、小説でも映画でも作者や監督が作品を作り続ける中で、似たような作風になってしまうのって、その人が持っている個性だと思うんです。
例えば、ジブリ宮崎駿監督は「魔女の宅急便」「紅の豚」「ハウルの動く城」の街並みに関して、『どうしてもイタリアっぽくなってしまう』って言ってたり。
金子みすゞさんの場合は、世界を分解できる目と、感情移入できる心と、循環を楽しむ事が特徴的で、とくに他者の心の中にある寂しさを察知する能力が素晴らしい。喪黒福造よりも感度のいいアンテナです。
そのうえで「私と小鳥と鈴と」は持ち味の全てが備わってる作品だと感じました。(寂しさではなく肯定で終わるのも)
26歳という若さで、自身を代表する作品を生み出せるのは本当にすごい事だと思いますし、天才だと思います。

 

ここで冒頭の金子文子金子みすゞの話に戻るのですが、読み終わってから2人について検索してみたら衝撃の事実が判明して、身体に電気が走りました。

金子文子    1903.01.25〜1926.07.23
金子みすゞ 1903.04.11〜1930.03.10

なんと、文ちゃん&すずちゃんは同じ時代を生きていたのです!
同じ名字で、同じ性別で、同じく文才がある二人が同じ時代を生きて、文ちゃんは獄中死を、すずちゃんは服毒自殺でこの世から別れを告げているのです。
金子文子さんの誕生日に関してはバラつきがあるみたいですが、青空文庫の作者紹介を参考にしました。
自らの生い立ちを書いたこの作品も切ない。涙
リンク貼っておきます。
図書カード:父

ついでに2人の他に1903年に誰が生まれているのかを調べたら、「風立ちぬ」でお馴染みの堀越二郎小林多喜二。ちなみに「星の王子さま」の作者サン=テグジュペリの誕生日も1900.06.29なので、同じ時代を生きていたようです。

 

世界は不思議でいっぱいです。
(おわり)