モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「むらさきのスカートの女/著 今村夏子」の感想

初の文藝春秋

文藝春秋ホームページ

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文庫本の小説しか買わない私が、なぜ文藝春秋9月号を手にしているのかといえば、何の政治理念もない小泉進次郎と、「それにはあたりません」「問題ない」というだけでまともに受け答えしない菅義偉の対談が見たいわけでもなく、嫌韓キャンペーンや日本スゴイ!系の記事が読みたいわけでもなく、コンビニで偶然見かけて、芥川賞を受賞された今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』が全文掲載されていたからです。これは買うしかありません。単行本だったら今村さんのエッセイは載っていないでしょうし、選考委員の論評もありませんから、文藝春秋買ってみっか!おらワクワクすっぞ!」天下一武道会を目指す事にしました。私は文藝春秋を読んだ事がほとんどなくて、あるとすれば図書館でチラ見するぐらいです。つまりは初めて買ったわけですが、投資と健康にまつわる広告が並んでいるあたり、わりと高貴な方々が買うものなんだろうと感じました。
(自然環境を考えすぎた私は「ご一緒でよろしいですか?」と言われて条件反射でオッケーサインを出してしまい、同じコンビニ袋の中で結露バリバリの飲み物と、ラップの間から液垂れするであろうお弁当と文藝春秋がまざりあってしまい、若干後悔している)
中野京子さんの「名画が語る西洋史」は面白かったですし、伊東四朗さんと半藤一利さんの対談や「福島第一原発津波の前に壊れた」は読みごたえがある内容でした。

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福島原子力事故における未確認・未解明事項の調査・検討結果報告 - 廃炉プロジェクト|公表資料|東京電力ホールディングス株式会社
海老原いすみ on Twitter: "津波による非常用交流電源喪失について。津波の流れと非常用電源の位置をシミュレートし、侵入経路と距離と時間をグラフにした。津波によって喪失したのが確からしいと説明(数分後の質問コーナーでダンガンロンパされる)"
(過渡記録装置に関しては2017年の12月25日の会見でも追及されてます。廃人である私はクリスマスも関係なくメモを取るのです)

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あと、レイアウトが変わっていて、いきなり違うコーナーの文章が入っていたり、中央に詩のコーナーがあって面白いなぁと感じました。ネットだと目障りな広告はあっても、それぞれの作者が意味を込めた文章が雑多に並んでいるという事はありませんからね。

(野木京子さんの作品の世界観良かったです)
他にも魅力的な記事はあると思いますが、蛇足が過ぎると「今村夏子が冬子になっちゃうぜ!」と言われる(言われない)といけないので本題へ移ります。
(関係ないけど、文藝春秋+今村夏子=冬が足りないって思った人は地球上にどれだけいるのでしょうか)

「むらさきのスカートの女」の感想

私が感想を書くときは、だいたい本のカバーに書かれている「あらすじ」を引用しつつ、内容に入っていくのですが、今回はいつものテンプレが使えないうえに、とても感想に困る作品なので楽ができません。

「こちらあみ子/著 今村夏子」の感想 - モブトエキストラ
『こちらあみ子』は純粋であり続けた場合の異様さが際立つ作品でしたが、今回はタイトルとなっている「むらさきのスカートの女」と友達になりたい「黄色いカーディガンの女」の奇妙な関係を描いた作品になります。

わたしは最初、むらさきのスカートの女のことを若い女の子だと思っていた。
〈中略〉
でも、近くでよく見てみると、決して若くはないことがわかる。頬のあたりにシミがぽつぽつと浮き出ているし、肩まで伸びた黒髪はツヤがなくてパサパサしている。むらさきのスカートの女は、一週間に一度くらいの割合で、商店街のパン屋にクリームパンを買いに行く。わたしはいつも、パンを選ぶふりをしてむらさきのスカートの女の容姿を観察している。観察するたびに誰かに似ているなと思う。誰だろう。

冒頭から今村夏子さん特有の「居心地の悪さ」が溢れ出しています。笑
カバの皮膚からピンク色の液体が出るのを見つけた子どもが、かき氷にそれをかけて食べようとしているのを、引き金に指をかけた密猟者がサイト越しにそれを見ているような、別に何も起きてないけど見えない所では既に条件は整っている怪しさです。
なぜ「わたし」が「むらさきのスカートの女」(長いから紫女って書くね)に興味を持っているのかといえば、この時点では、自分が知っている人物に似ているからで、それが誰だか分からないから異様なまでにジロジロと観察しているわけです。

むらさきのスカートの女はわたしの姉に似ている気がする。もちろんまったくの別人だということはわかっている。
〈中略〉
むらさきのスカートの女がわたしの姉に似ている気がするということは、むらさきのスカートの女は、妹のわたしにも似ているということになるだろうか。ならないか。共通点なら、無いこともないのだ。あちらが「むらさきのスカートの女」なら、こちらはさしずめ「黄色いカーディガンの女」といったところだ。
残念ながら「黄色いカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」と違って、存在を知られてはいない。

「居心地の悪さ」は深みを増して、女性同士の恋愛のような眼差しと、ミザリー的な「お巡りさんこの人です」と言いたくなるような危うさに昇華されています。
キーワードは「残念ながら〜存在を知られていない」で、物語の方向性としては紫女との距離をいかに縮めて接触するのかが見どころであって、田中邦衛とキタキツネるるるるるなのです。
「わたし」の観察によれば、紫女は誰ともぶつからない運動神経の持ち主で、子ども達の間ではジャンケンで負けた人が紫女にタッチするという遊びが流行します。からかわれている紫女を見ながら「わたし」は観察を続けるわけですが、ここで少し変化が訪れます。

むらさきのスカートの女はわたしの姉に似ていると思ったが、やっぱり違う。元フィギュアスケート選手のタレントにも似ていない。むらさきのスカートの女は、わたしの小学校時代の友達、めいちゃんに似ている。
〈中略〉
まぶたの形状だけで言うなら、むらさきのスカートの女はわたしの中学時代の同級生、有島さんに似ていなくもない。
〈中略〉
そういえば、ワイドショーのコメンテーターにもむらさきのスカートの女に似ている人がいる。
〈中略〉
違う。思い出した。今度こそわかった。むらさきのスカートの女は前に住んでいた町のスーパーのレジの女の人に似ているんだった。
〈中略〉
つまり、何が言いたいのかというと、わたしはもうずいぶん長いこと、むらさきのスカートの女と友達になりたいと思っている。

作者が紡いだ文章を中略だらけのブツ切り状態にしてしまって申し訳ないのですが、このパートは発明です。
一見すると紫女を監視しながら「わたし」が独り言をブツブツ呟いているだけで、あまり中身がないように感じるのですが、両親の離婚をきっかけに一家離散している「わたし」にとって「紫女」は『マッチ売りの少女』における「マッチ」の役割みたいに「わたし」の記憶を思い出すキッカケになっているのです。
つまり「わたし」は紫女越しにノスタルジックな記憶を見て、幻覚作用を味わっている。そして、そのノスタルジックの塊である「紫女」に触れようとして肉屋のショーケースを破壊してしまい修理代金を払わなければならなくなり、月一で売れそうなものを小学校のバザーで売ることになったと。

パンを食べている時はいつも空の一点を見つめている。集中している証拠だ。食べ終えるまでは何も見えない、聞こえない。もぐもぐ、ぱりぱり。おいしい、おいしい。

はい、ここでまた新たな解釈が生まれる今村マジック。(スペイン風ならイマムーラマジコ)
①ショーケースに激突して壊したのに「わたし」は無傷だった
②紫女を観察しているはずの「わたし」が『美味しい』と言っている
ということは…「紫女」と「わたし」が同一人物という可能性が浮上。
さらに言えば、2人とも友達が居ないという点を踏まえるとーー

  1. むらさきのスカートの女は黄色いカーディガンの女が作り出した幻影
  2. 黄色いカーディガン女はむらさきのスカートの女が作り出した幻影

この2パターンが考えられます。
ドッペルゲンガー説あるぞコレ!」と思わずテンションが上がってしまいました。
ここから物語は、紫女が仕事を見つけて働き始めるという展開になります。距離感で言うと、商店街の風景の一部であった紫女が仕事を始めるわけですから、当然のことながら「わたし」との距離は遠ざかるはず…なのにわたしは相変わらず監視しまくるのです。

同じく商店街の百円ショップで買ったストッキングは、つま先を差し入れた途端にビリっと音を立てて破れてしまった。むらさきのスカートの女はストッキングを脱ぎ捨てて、素足に靴を履いた。最後に白いエプロンを装着した。むらさきのスカートの女はエプロンの付け方を間違えた。紐は背中でばってんにしないといけないのに。

家政婦は見た!」よりも見てるし、なんなら更衣室のロッカーの中に隠れて見てるんじゃないかと思うぐらい描写しています。「わたし」は変態です。笑
紫女が働き始めた場所はホテルと業務提携している清掃業者で、初日は所長(ストレスで太った)や塚田チーフから仕事の内容や身なりの注意、それにサービス業なのでハキハキと返事ができるように声出しの訓練が行われました。

「おーい!そこのあなた。えーと、だれかな、顔がよく見えないんだけど、うちの制服着てる、そう、そう、あなた! 聞こえてたら手を振ってくれ! ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
わたしはひらひらと手を振った。
「聞こえてるみたいだな。よし合格!」

このパートの中で紫女の名前が「日野まゆ子」である事と、「わたし」が職場にいる事が判明しました。(やはりと言うべきか)
こうなると、先ほどの私の「ドッペルゲンガー説」は脆くも崩れ去る事になります。「ひらひら」と手を振る「わたし」に変わって、「さらさら」と手を振る矢井田瞳のモノクロレターを送りたい。
あーめん。ドッペルゲンガー
http://j-lyric.net/artist/a0006b1/l002dfc.html

初日の午後から日野の研修が始まります。塚田、浜本、橘チーフ達と会話を交わす中で、捨てるのはもったいないからと、彼女達は日常的にゲストが残したフルーツを食べたり、シャンパンを飲んでいる事が分かります。(権藤チーフは無言←怪しい)また、備品に関しても使っているようです。
夕方、家の近くの公園で日野は専用シートに座って北斗リンゴ(チーフから貰った)を食べていると子供達に絡まれ、リンゴが地面に落下。
ジーザス。ヘイ、ジーザス。

みんなで一個のリンゴを代わる代わる手に取り、丁寧に洗い流していた。洗い終えたリンゴは、最終的にむらさきのスカートの女の手に渡された。ぞろぞろとシートに戻って来ると、まず、むらさきのスカートの女がリンゴを一口かじった。
〈中略〉
むらさきのスカートの女を中心に、リンゴが反時計回りにぐるぐると渡っていった。男の子のかじったところを女の子がかじり、女の子のかじったところを女の子がかじり、女の子のかじったところを男の子がかじり、男の子がかじったところを男の子がかじり、男の子がかじったところをむらさきのスカートの女がかじり、二巡目でりんごは芯だけになった。

「わたし」の描写力というか、今村さんの表現力が再び発揮されているシーンです。(是非買って読んで欲しい)
子供達にからかわれる事が日常になってる感じが、堤幸彦さんのTRICK』に出てくる山田奈緒子っぽくて面白いんですよ。みんなでリンゴをぐるぐる回して食べるなんて山賊でもしないでしょう。笑
宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』っぽさもありますが、この場面に関しては映像化したら面白そうですね。

2日目
→昨日の鬼ごっこで日野は全身筋肉痛。
職場には他にも新庄、堀、宮地、野々村という人物がいる事を知る。

3日目
「わたし」は公休日。それでも、日野の行動を観察するため職場に行ったが、制服を忘れてしまい帰宅。夕方、商店街で日野を見かけたら動きがゆっくりだったので心配する。

4日目
日野と塚田が公休日。このままバイトを辞めてしまうのではないかと「わたし」は心配する。

5日目
朝バス停で日野を見かける。「わたし」は満員電車の中で日野と日常会話をする想像する。ふと見ると、肩にご飯粒が付いている事に気付きます。

じりじりと、少しずつ腕を伸ばしていき、むらさきのスカートの女の肩に付いたご飯粒まであとわずかという距離までわたしの指先が近づいた時だった。バスが急カーブに差しかかり、車体が左右に大きく揺れた。その拍子に、わたしはご飯粒ではなくて、むらさきのスカートの女の鼻をつまんでしまった。
「んがっ」
と、むらさきのスカートの女がまぬけな声を出した。

唐突にアンガールズの『ビリアード部』みたいな展開があって笑ってしまいました。触れないと思っていた日野にわたしが触れた瞬間でもあります。
この後、日野は痴漢被害に遭い2時間遅刻。これを受けて所長が「心配だなぁ〜」とか「チーフになれば時給が30円アップする」と言って日野に接近してきます。(この気持ち悪さは不倫の匂いがするぞ!)
それを盗み聞きしている市原悦子さん(嘘です、わたしです)は、鼻をつままれた話をしない日野にもどかしさを感じます。

6日目
今度は日野の鼻から血が出るまでつまめば、なんだかんだで友達になれるんじゃないかと想像しながら、バス停に立っている「わたし」(変態)の思いとは裏腹に、日野が姿を現わす事はありませんでした。しかし、日野は8時50分に出勤している。

はい、ストップです。
何のために初日から時系列を追って書いたのかと言いますと、一箇所気になるところがありましてーー。

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具体的に言えば「勤務五日目にして」は六日目の間違いではないでしょうか?タイムリープとかやめて)
こればかりが気になって、本文が頭に入ってこなくなりました。
この後の展開としては、小学校のバザーにホテルの備品が転売されていた事が判明した事と、日野が所長と不倫関係になり職場での評価がガタ落ちするも、チーフに昇格したので誰と会話せずに1人
で仕事ができる環境が構築されます。

「証言?」
「そう。おれは関係ないって、全部一人でやりましたって、マネージャーにそう証言してくれよ」
「はあ?」

「わたし」が転売ヤーなのに、結果的に日野が転売の犯人とされてしまい、自らの立場を危ぶんだ所長は日野のアパートに押しかけ自供を勧めます。絵に描いたようなトカゲの尻尾切りですが、これにブチ切れたスーパー日野野人はホテルに宿泊した女優の下着を所長が持ち帰った事を暴露し修羅場へ発展。(平手打ちと金的の素晴らしいコンボに格闘技のセンスを感じます)もつれた際に所長は体勢をくずし、勢いあまって外階段の手すりに手をかけます。しかし、ボロアパートの錆びた手すりは所長のワガママボディを支える耐久力はなく、破断し、そのまま所長は空中に投げ出され、茶色い土の上に全身を打ち付けます。

「ともくん……、ともくん……、ともくん……、ねえ、ともくん、しっかりしてよ、ねえ、ともくん! ともくん! ともくん! ともくん! ともくんってば!」
「しー。静かに」
と、わたしは言った。
〈中略〉
「どうして、権藤チーフがそこまで……」
いつのまにか、むらさきのスカートの女の涙は止まっていた。丸く小さい二つの目を、まっすぐにわたしの顔に向けている。
わたしは静かに首を振り、権藤チーフではないよ、と言った。
「わたしは、黄色いカーディガンの女だよ」
あなたが、黄色いカーディガンの女?
むらさきのスカートの女が、そう言った気がした。
実際は、何も言わずにわたしの目を見ていただけだ。

マッチポンプのヒーロー見参!笑
ここも笑わせてもらいました。妄想と現実の温度差による笑いですね。
ざっくり言ってしまうとこの後は、ショーケースの修理代を払えなくなり、いつ逮捕されてもいいようにと夜逃げの準備をしていた権藤が、日野にお金やコインロッカーの鍵を渡して逃亡の手助けをします。二人で逃避行するはずが、むらさきのスカートの女は姿を消してしまい、誰かに行方を訊くにも何色のスカートを履いていたか思い出せず、そのまま日野は行方不明になります。
日野の居なくなった穴を埋めるように、職場には新たなスタッフが入り、死んだと思われた所長は存命で、職場のチーフ陣と病院を見舞った際に、権藤が女優のパンツを盗んだ事をネタにゆすって時給を上げてもらい、むらさきのスカートの女が座っていたベンチでクリームパンを食べて、子供がタッチして逃げるというシーンで物語は幕を閉じるのです。
「わたし」が誰なのかについては想像できるものだったので、あまり驚きはありませんが、「匿名の通報」「無言電話」という部分を考えると、恐らく権藤は日野が所長と不倫関係になったあたりから、犯人に仕立て上げる計画を考えていて、自分の罪を日野になすり付け、なおかつピンチを救った救世主として日野の中で確固たる地位を築き上げる狙い、いわば「劇場型犯罪」ですが、妄想が現実に変わるのが楽しくて仕方なかったのではないでしょうか。
それと物語の終わり方について。

憧れの存在や好きな友達ができた時に同じ格好をしたがる人間っているじゃないですか?(たいてい嫌われるけど)
それって同化ですよね。
「子供がタッチした」という事は、「権藤はむらさきのスカートを履いてる」という事です。
最後のホラーに気付いたでしょうか。
これが今村夏子さんの文才。
そして、私のドッペルゲンガー説もあながち外れではなかったと思いたい。

選評のお時間です

普通だったら、これで「おわりに」って書いて記事を終わらせるところですが、文藝春秋版という事でここからは選評と今村さんの話に触れていきたいと思います。

小川洋子さん
常軌を逸した人間の魅力を、これほど生き生きと描けるのは、間違いなく今村さんの才能である。

髙木のぶ子さん
二人を別人とすれば状況的に無理があり、同一人物だとしても矛盾がある。どちらでも良い、と思うことが出来れば、この作品を認めることが出来る。

奥泉光さん
むしろ「わたし」の奇矯なふるまいを描く場面を増やしてもっと笑わせて欲しかった、などと、ないものねだり的に考えたりもしたのだけど、作者の力量に対する評価は変わらなかった。

山田詠美さん
少しも大仰でない独得の言葉で、そこはかとない恐怖、そして、おかしみの点在する世界に読み手を引き摺り込む手管は見事だと舌を巻いた。

島田雅彦さん
商品としては実にウエルメイドで、平易な文章に、寓話的なストーリー運びの巧みさ、キャラクター設定の明快さ、批評のしやすさなど、ビギナーから批評家まで幅広い層に受け入れられるだろう。だが、エンターテイメント・スキルだけでは「物足りない」のも事実である。

川上弘美さん
「むらさきのスカートの女」の中には、作者今村さんの声がほんとうによく響いていました。今村さんがつくりあげた、今村さんの声を、惜しむことなく美しく聞かせてくれました。

宮本輝さん
今村さんは以前候補作となった「あひる」でも特異な才能を感じさせたが、今回の「むらさきの…」で本領を発揮して、わたしは受賞作として推した。

吉田修一さん
個人的には、不潔な女性の描写に魅かれた。これまで不潔だが魅力的な男性というのは小説でも読んだことがあるが、ここまで不潔なのに魅力的という女性は初めてのような気がする。

堀江敏幸さん
自分のことしか見ていないのに他者との関係を浮き彫りにする、この眼力の持ち主ならば、言葉の高層ビルの窓ガラスに映った自分の顔を拭き取ることができるだろう。本作を推した。

『むらさきのスカートの女』の評価に関する部分を抜粋島倉千代子させて頂きました。(しまくらせて頂きました←最初からそう書けばいいのにって自分でも思う)

ドッペルゲンガー』というキーワードが出ていない事に私は胸をなでおろしたりあげたりしました。(筋肉体操かよ) 自分の感想と全く同じ内容で、なおかつ名のある作家さんが上位互換のような上質な文章で綴っていたら引け目を感じざるを得ませんからね。
それと一つ触れておきたいのが、今回の候補作の中にある『百の夜は跳ねて』と『天空の絵描きたち』の関係。選考委員それぞれが参考文献のあり方や、ナルシズム、差別的な目線などについて書いていて、堀江敏幸さんの選評はそれを絡めた文章で上手いなぁと思いました。
私が選評を読んだ感想としては、評価する声もある一方で、総合的な評価としては12R戦ったボクサーのように腫れ上がってる感じがしました。1Rしか戦ってないのに。(1R3分=インスタントって意味ね)
ただ私はどちらの作品も読んでいないし、フジテレビもほとんど見てないので作者がどのような思想を持っているのかも知りません。興味のある方はディグってみてはと思います。
話を『むらさきのスカートの女』に戻しますが、基本的に選考委員の皆さんは今村夏子さんのスキルについて認めていて、批判(物足りなさ)があるとすれば島田雅彦さんの仰る「エンターテイメント・スキルだけ」という点だけでしょうか。
他方、私が指摘した『勤務五日目六日目問題』については一切の言及がありません。私が間違っているのでしょうか。一体このモヤモヤをどうすれば…。
これはまるでぼくのなつやすみ』の8月32日。
ぼくのなつやすみの8月32日をついに解説(作者本人) - Togetter

エッセイ「今日までのこと」

選評の次のページに今村さんのエッセイが掲載されています。その中では他人と食事をするのが苦痛で、学生時代は摂食障害に悩まされながら引きこもりがちだった事や、絵本作家や漫画家になりたいと思った事、よく読んでいた作品は宮本輝さん、向田邦子さん、講談社文庫のムーミンシリーズが愛読書だったそうです。『こちらあみ子』が三島賞を受賞した時は不安のほうが大きく、小説が書けないせいで客室清掃の仕事が楽しくなくなってしまい、結局その仕事を辞めてしまったそうです。
その後、紆余曲折を経て『あひる』『星の子』が芥川賞を逃し、三度目はないと言われいた事もあって、今回の受賞は頭の中が真っ白になったと綴られています。
素人目には、こうした人生が変わるような転機が訪れた人って、親戚が増えて身ぐるみ剥いでくるイメージがあるのですが、今村さんは全く友達が増えないし、一方で変わらない日常に安心していると書かれています。考えてみれば、今村さんが『笑っていいとも!』や『ゴロウデラックス』に出ているのを見たことがありません。(両方番組終了してるんだぜ)それに、Twitterの公式アカウントも見当たらないので、この時代に珍しく謎を保っていますよね。
メディアへの露出が少なく、漫画家になるのが夢だったという点でいえば、宇多田ヒカルさんや米津玄師さんと同じですね。
あと、『むらさきのスカートの女』の感想でちょっと長くなると思って削ったんですが、今村さんの文章ってさくらももこさんっぽさも感じるんですよね。日常の中に童話があるというか、何というか…。

不思議の国のアリス』ほど明確ではなくて、見える人には見えるという霊感のようなセンサーがギミックにあって、読者はもちろん見えませんから、そのギャップがイマムーラマジコなのだと思います。
西加奈子さんが小説を書く時にイメージを絵にするという話をどこかでしていた気がするのですが、今村さんもイメージを絵に落とし込む事があるのでしょうか。残念ながら、このエッセイの中では創作活動に関しては触れられていません。これから8本のエッセイを書かなければならないそうなので、いつか狂気とメルヘンの日常の入口がチラッと見れる日が来るかもしれませんね。

おわりに

文藝春秋を買って流行の小説を読むというのは新鮮でした。とくに感想文は自分が思った事だけを書いてそのまま自己完結させる作業なので、作品と合わせて名だたる作家さん達の感想を読めたのは新鮮でした。
それにしても『むらさきのスカートの女』は不思議な作品でした。これまた、長くなるからと削ったんですが(やっぱ書くんかい)、紫女が所長と不倫関係になってから強い香水を振りかけたり、公園の子供と遊ばなくなるという、身なりと心理的な変化が描かれている部分があって、ここを読んで私はNakamura Emiさんを思い出しました。
付き合う人に影響を受けて変わるという事はどの世界でも起こり得ると思うのですが、Emiさんの場合は昔付き合っていた彼氏の影響でHIP-HOPを知って、幼稚園の先生やトヨタの工場(たしかエンジンの部門だったかな?)勤務を経て、オフィスオーガスタ竹原ピストルさんのライブに心を撃ち抜かれて現在に至っています。つまり、紆余曲折を経て才能を発掘され、結果を残したという点がダブって見えたのです。
大学の入学試験で女子生徒に補正を加えて、男子生徒が有利になるようにしたり、あいちトリエンナーレジェンダーギャップを無くそうと作家の男女比率を50:50にした津田大介さんの頑張りも結果的にグチャグチャにされてしまったり、どんどん世の中は狂っていきますが、今もこの世界のどこかに眠っている素晴らしい才能が必ずあると思うので、そうした才能がどんどん発掘されて欲しいと思います。

ただし、そのプロデューサーが黄色いカーディガンを着ていた場合は注意が必要でしょうねぇ。

(おわり)