モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

11月21日 無知につけこまれる

00-06 IC

06-12 CEFB

12-18 BCC

18-24 ×

 

B. 東北地方 -0-1-1-0=2

C. 関東地方 -1-1-2-0=4

E. 近畿地方 -0-1-0-0=1

F. 中国地方  -0-1-0-0=1

 I .沖縄地方  -1-0-0-0=1

合計回数      -2-4-3-0=9

 

01:31 与那国島近海 50/3.8 ①

03:15 茨城県沖        50/2.9 ①

06:59            〃        10/5.3 ③

08:35 三重県中部     20/3.1 ②

10:56 鳥取県中部     10/3.0 ②

11:47 宮城県沖         50/4.2 ②

12:58 青森県東方沖 10/4.4 ①

14:42 茨城県沖        10/3.8 ①

15:44 茨城県南部    50/2.8 ①

 

 

朝から地震があって気分が沈んでいた。

せめて爽やかに朝を迎えられるようにZARDを引用してみたけど、誰からも反応がなかった。もうボケるのはやめようと思った。

 

ステージ上でカニエ・ウエストがトランプを肯定し、グリーンデイがトランプを否定した。世界の分断は広まるばかり。

 

 

 

凍土壁の凍っている部分を見せて副大臣を騙すエネ庁/F2圧力抑制室で孔食(ダイバーが目視点検)/基準値を超えるドレンポンドBの水を集水タンクで希釈して排水/外国人労働者の困っている声は聞こえない|海老原いすみ|note 

 

今日の東電会見の収穫は説明担当の岡村氏が「希釈」を「集水」と説明している事に関して言葉遊びだと認知していること。

各井戸の濃度が基準値を超えたとしても、地下水バイパスならば傾向監視をし、ドレンポンドの場合は中継タンクと集水タンクを介してサンプリングタンクの数値で判断している。

2014年の4月11日の会見で共同通信のマエダ記者が「他の井戸と混ぜて希釈して排水するのか?」と質問したが当時の広報はこれを否定していた。

しかしながら実際は混ぜて排水している現状が続いている。トリチウムはALPSに通しても濃度は変わらない。

 

http://mainichi.jp/articles/20161118/k00/00m/040/175000c

ブラジル政府が東電に対して広告を自粛するようにと意見したことについては、国が国民を守るために意見表明してくれるのが羨ましくもある。(国民を守るよりも憲法を遵守するという意味で)

「声は聞こえない」と岡村氏は回答していたが、実際に現場でポルトガル語を理解できる人間がいなければ理解のしようがないではないか。

岡村氏は広報として比較的、正直に回答をする方であるがこの気持ちの悪さはなんとも言えないところである…

 

あとは東洋経済のオカダ記者が現在のF1で全面と半面マスクをしている作業員の数を質問したところ、グリーンエリアの作業員が2000人でマスクの使用は企業と個人の自由との回答を得ていた。

だから差し引きで約4000人+αがマスクをして作業していることになる。

 

「福島の高校生、廃炉現場を見学 18歳未満で事故後初」 (2ページ目) - Togetterまとめ

 

吉本隆明の特集の感想 - モブトエキストラ(左利きの空想記)

 

糸井重里さんが未成年者をマスクなしで見学させたのはどうかと思う。

 糸井さんは吉本隆明氏の思想に影響を受けているから核を容認するし、広告産業と電力会社の関係は深い。詩人が幻想を持つことになんの不思議もないし「ほぼ日」のブランド力を使って被災県で新たな産業を後押しすることはいいことだと率直に思う。

しかし、非常事態宣言下にある原子力施設の中を放射線に対して感受性の強い子供たちを無防備なままツアーさせたのはどうかしている。

東電会見をメモし続けているから分かるけども、原発構内で死亡した作業員、あるいは構外で死亡した作業員の死因(パワープロベスターによる圧死などは別)は「持病」とされることが多く、プライバシーの関係から詳細が公開されることはない。もし、子供たちに何かがあっても踏襲される。放射線は目に見えない蓄積毒である。

子供たちの知る権利は大人が最大限守らなければならないし、生活居住区の清掃活動をしたいという気持ちなども尊重されるべきだと思う。

だから大人は子供たちが自由に行動できるように、無用な被ばくをしない環境設定をしなければならない。それが大人の義務。

だから、加害企業の言葉をそのままに未成年者を無防備なまま原子力非常事態宣言化の原子力施設でツアーを組んだ大人を私は恐ろしく思うのだ。

 

この国は精神論を強要する老人と印象論で決めつける老人たちが、若者に自己責任を強いる国に変貌しつつあると感じる。勉強を捨て去った後に残るのは不毛な議論だ。

 自らを防護するにはより多くの知識が必要であるが、学校もまた政府の方針や宗教者の思想が色濃く反映される場所になりつつある。ここにも危機感がある。

 自分の意見を持たないと全体主義な上書き保存されてしまう。

何か大切なモノを失わないと、私たちは気づかないのだろうか。

政治は機能しない。宗教は支離滅裂。

経済は創造を忘れ、それでも人々はシステムに依存する。

もしかしたら、この斜陽から覚めようと安上がりを望むほど失敗するのかもしれない。だから覚悟が必要なのかもと。