ハフィントンポストがダウン症を持つ子どもの母親の声を取り上げていた。
マジョリティー側の意見を一言で書くならば「前もって病を患って生まれてくる可能性が高いのになぜ子どもを生んだのか? 可哀そうではないか?」ということだろう。
私は「可哀そう」という概念がイマイチ理解できないし嫌悪感がある。
例に挙げて申し訳ないが、24時間テレビが嫌いだ。
博愛や寄附、喜捨というものは理解しているつもりだが、そういった行動をする人というのは当たり前の事として行っている場合が多く、人の役にたつ事で自己肯定感が増す側面がある。
ただ、24時間テレビはどうしようもない。
まず、マラソンをやる意味も分からないし、しかもそれを押し付けあっているなら尚のこと理解できない。
つまりこれは、あからさまに視聴率を稼ぐために「チャリティー番組を演じる番組です」と言っているようなものだ。
私にはこのようなチャリティーを行うことは、弱者切り捨ての社会に拍車をかけているように見えてならない。
極端に言えば「可哀そう」という言葉を用いた悪質な詐欺に見えるのだ。
話をもとに戻す。
「可哀そう」と思う人達は恐らくブレーキが効かない車に人を乗せるようなイメージをもっているのだろう。これは「設計図にはブレーキがある」という前提で話をしている。
言うまでもないが、車と違って胎児には命がある。
人間は両親から25%の細胞を受け継ぎ、75%をデザインしていく生き物だ。
そこに差別があってはならない。
ダウン症の子どもからしてみれば、生きる過程で苦しみを感じる回数や差別を受ける回数は多いだろう。
個人を認めない閉鎖的な社会であるならば、なおのこと辛い人生になると想像することは難くない。
ある人からすれば、75%の幸せを作ることが人生に思えても、75%の不幸が待っていると感じるかもしれない。
母親はより多くを考え、胎児の命を奪うか、そんな社会に生むかを選択するのだ。
それはその胎児の母親にしか経験できない偉大なものに思う。
そして、そんな人々を感情論で統率する魔法の言葉でもある。
ちょームカつく。