ニンゲンというバケモノ
金曜ロードショーで「バケモノの子」をやるというので録画しました。細田守監督の作品はSF要素で刺激を受けて群像劇に涙するという作品が多いですが、今回の作品はSFよりも群像劇が全面に出された作品でした。
近年のアニメはCG技術の発達により、迫力のあるアクションシーンが多くなっています。しかし私はあの特有の光沢感が好きではありません。プラスチックのように溶け残って親油性がないというかなんというか…
この映画もふんだんにCG技術が使われているが、フスマートのようにボカしている気がしました。見てるうちに「アウトモデリスタ」というレースゲームを思い出してしまいました。
CGアニメは好きではありませんが、こういう世界観は嫌いではない。
そう思わせるのは群衆を適当に描いていないからだと思います。きちんと足が動いてますし、一歩ずつ進むたびに頭が上下する。大量消費されるCGアニメは横着するから当たり前さえ表現できないのが問題なんですね。アニメーターも時間の制約と低賃金の中で仕事をしてますから悪者にするつもりはありませんが。
蓮
→母親の事故死によって突如として幸せだった家庭は壊れてしまいます。孤独と身勝手な大人に対する憎しみが彼のダークサイドとして描かれています。
人間誰しもが抱える心の闇こそがこの映画の主人公だと私は思うと同時に、バケモノとはニンゲンのことなんですね。
渋天街へと足を踏み入れたこのシーンは「千と千尋の神隠し」を彷彿とさせます。
熊徹
→たった一人で強くなってしまったが為に他人の心が分からず、自分の価値観を他人に押し付けてしまう「大人」。
画像は蓮に剣術を教える最初のシーン。蓮の木刀の振り方が下手すぎて「いやいやいや、細田さん盛りすぎですよ」と少し笑ってしまいました。
蓮を育てることで自分に足りないものが何なのか気づかされ、仲間に支えながら子育てをする。
はてな匿名ダイアリーに投稿された「保育園落ちた。日本死ね」が一時期取り上げられたのは記憶に新しい。「地域コミュニティをいかに子育てのライフラインとして機能させるのか?」という難問を投げかけているように思います。
→序盤での決闘シーンは「紅の豚」のオマージュかと思うよパトラッシュ。
ポルコは豚だけども。
百秋坊
→恐ろしいほどの演技力を見せるリリー・フランキー。変態が演じる僧侶に騙されそうになるが、九太気をつけろ!百さんは変態なんだ!
多々良
→「おい、パイ食わねぇか?」でお馴染みの尿泉さん。これはナイスキャスティング。
自分勝手な熊徹に「自分がして欲しいことをしてやれ」と助言を与えるシーンは印象的。
蓮のパパ
→「父子家庭」を描いているこの映画は、現実世界における「親の孤独」も余すことなく描いています。
これは個人的な解釈ですが、おそらくパパは蓮の親権を取られてしまったのではないでしょうか?
月日が流れても蓮に対する愛情は消えることがなく、一緒に生活することを活き活きと語るシーンはそれだけ孤独であったということではないでしょうか?
猪王山
→「残像だっ!」「残像だっ!」「残像だっ!」
「監督!出オチですか?」と思いきや、猪王山も熊徹と同じように人間界から一郎彦を連れてきたというストーリーが。
しかも、赤ん坊の一郎彦は路上に捨てられており、心優しい猪王山は自分の子どもとして愛情を注いだのだった。
熊徹や蓮パパとは違った境遇で男性の子育てが描かれています。
猪王山の妻
→「ゆっくりしてってね!」
「監督、やっぱり出オチじゃないですか」
寒いなら長袖着ればいいのに、ストール羽織ってるあたりがなんかエロい。
二郎丸との顔面偏差値を見比べてるのかなぁ。
一郎彦
→童謡「ぞうさん」の歌詞には『そうよ母さんも長いのよ』と身体的特徴の遺伝が表現されていますが、人間である一郎彦は父親の猪王山と同じような鼻も牙もない事がコンプレックスでダークサイドへと昇華しました。
イノシシのフードは「もののけ姫」のジコボウっぽいですね。
クライマックスになると一郎彦の端正な顔立ちはどこへやら、作画崩壊レベルの変貌を遂げます。
熊徹を刀で突き刺した際に「念道力」と発言していることから、おそらく「念道力」の正体は闇の力でしょうね。
巨大化した憎しみはクジラのサイズとなりましたが、熊徹と蓮が憎しみを受け止めてハッピーエンド。
ラッセンみたいな綺麗なクジラでした。
二郎丸
→血縁関係で言えば長男。
一郎彦のことを「にぃちゃん」と呼ぶが、自分よりも力の弱い人間には冷淡な一面を見せる実力主義者。
イジメられている蓮を見ながらお菓子を食べる変態であるが、蓮に負けるや否や友達になろうと言い始める。
「お前、頭がどうかしてるのか?」と疑いたくなるレベルである笑
ただ、それが動物世界のルールならば正常な反応といえるでしょう。
あっ、蓮を家に招くようになったことで猪王山の妻が女の側面を見せ始めるというのはボツでお願いします。
楓
→人間界に戻りたい蓮は図書館へと足を運んだ。そこで出会ったのがこのキャラクター。
館内でたむろって騒音を撒き散らすDQNを注意すると、帰りに待ち伏せされてカバンの中身をぶちまけられてしまいます。(DQN情報によると楓は一年生の時からスクールカーストのターゲットになっていたそう)
この窮地を救ったのがイケメン青年の蓮である。視聴者はこう思ったに違いない
「なんてベタな展開なんだ…」と。
これを機にイケメン青年と秀才美少女のラブストーリーが始まるわけですが、私はこの映画において楓に納得がいきません。
楓は学歴社会で苦しむ子供として位置づけられます。夜に黙って家を抜けるシーンでは、手元の資料に目を落とし楓には何の興味も示さない両親の姿がガラス越しに映っていました。また、進路を親に決められてしまう不自由を初めて他人(蓮)に打ち明ける場面もありました。
「ああ、なるほど。この子には友達がいないのか」と思うじゃないですか。
そうしたら、蓮が学校の外から柵ごしに楓と話すシーンで「かえでぇー!その男の子ダレェ?」みたいな。
「えっ?友達いるじゃん!!」って笑
となると、この子は幸せなんじゃないかと思えてくるんですよ。
だって、家はお金持ちでマンションの上層部に住んでいるし、親もネグレクトしてるわけでなくて教育を受けさせてますし、友達もいるし。
スクールカーストもDQNが馬鹿なだけで、楓にしてみたら勝手にカバンの中身をぶちまける奴らと会話したくないでしょう? つまり、口をきいてもらえないのはDQNのほうで楓は他の友達と仲良く学園生活を送っているとしか思えない。
「大人になったら自由に生きるんだ!」ってこの娘は言うけど、そのために両親はいい学校に通わせているのではないでしょうか。
まだ、あるんですよ。言いたい事が!←
↑楓の机の位置が低くないですか?
姿勢が良んですか? 手が長いんですか?
どちらにせよ私はこの机の高さが気に入らないのです。この娘とは友達になれる気がしません。
楓は机にクマ置いてますけど、蓮はチコ置いてますね。最初はチコがラスボスかと思いましたけど、 何の説明もないまま映画終わりましたね。これも納得できません。
画像は人間界に現れた一郎彦が蓮に襲いかかるシーンです。ここで、蓮が楓を遠心力で吹っ飛ばすんです。
静止画でもちゃんと動きが分かる作画で「ザッサァァァ!!」って効果音が聞こえてきそうですよね?
楓はもう一回「ザッサァァァ!!!」ってなるんですね。
先ほどは右半身でしたが、今度は左半身が「ザッサァァァ!!!」って。
なのに!血が出てないって絶対おかしいですよね?
一郎彦に刺された熊徹は血を流したのに、お金持ちで頭が良くて美少女で友達がいて、膨張して見えるはずのボーダー柄のワンピースを着ているのに細身で、二回も「ザッサァァァ!!!」ってなってるのに無傷だなんて、楓はどんなバケモノだよ!!
楓はバケモノです。チートです。
眼鏡をかけているシーンもありましたが、夜の街を歩くならメガネをかけるはずですし、コンタクトならメガネはいらないのです。
つまり、蓮がメガネ女子に興味があるかないかを試しているにすぎません。
あの娘は悪魔です笑
最後に納得がいかないのが監視カメラに映ってなかったから車両の爆発と結論付けた警察←まだあんのかよ
本当に作画が細かくて素晴らしいんです。
ジャッキーばりに店の屋根に叩きつけられるシーンでも、店の中の客が蓮の姿をちゃんと見てるんですよ。
もし映像があるなら確認してみて下さい。
これだけ目撃者がいるのに事情聴取もろくにとれないなんて警察は何をやっているのでしょうか?
まとめ
「バケモノの子」はより多くの人が感情移入できる作りになっていて、ニンゲン社会の閉鎖性に一石を投じる作品だと思いました。楓はバケモノです。
だから、蓮や一郎彦と比べたらダークサイドが足りないですね。
字の読み書きができない蓮に対して
この映画において