モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

【100de名著】第二回 歎異抄 「悪人こそが救われる」


名著53 歎異抄:100分 de 名著
第二回は、親鸞の思想の核心である「悪人正機」と「他力」という言葉に込められた深い意味を読み解き、自らの悪を深く自覚した人、社会の底辺で生きる弱者や愚者こそが救われるという、親鸞の教えの核心に迫っていく。
前回、歎異抄(たんにしょう)って読むんだねという事と、他力という理解だと阿弥陀様の力が凄すぎて堕落してしまうんじゃないかという懸念が出たところでお終い。
今回は歎異抄の全貌がより明らかになる内容でした。

悪人こそが救われる

f:id:ebiharaism:20160413104726j:image
まずは悪人が救われることについて釈先生が解説しました。
悪人正機説」とは一体…

f:id:ebiharaism:20160413105042j:image
以下、第三条の現代語訳です。
善人でさえ浄土に生まれることができるのです。まして、悪人はいうまでもなく間違いなく往生を遂げることができます。
ところが世間の人は普通「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」と言います。
なるほど、これは最もな通りなようですが本願他力の救いの心に反しています。
f:id:ebiharaism:20160413105336j:image
なぜならば、自力で納めた善によって往生しようとする人は、一筋に本願の働きを信じる心が欠けているから阿弥陀仏の願いに沿ってはいないのです。
f:id:ebiharaism:20160413105412j:image
しかし、そんな善人でさえ自力に囚われた心を転換して本願の働きにお任せするなら真実の浄土に往生することができるのです。
f:id:ebiharaism:20160413105602j:image
あらゆる煩悩を備えている私たちは、どのような修行を実践しても迷いの世界から逃れることはできません。阿弥陀仏はそのような苦悩を深く悲しまれて本願を興されたのであり、その願いのこころは私たちのような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願の働きにお任せする悪人こそがまさに浄土に往生させて頂く因を持つ者なのです。
だからこそ「善人でこそ往生するのだから、まして悪人はいうまでもない」というわけなのです。

f:id:ebiharaism:20160413105811j:image
f:id:ebiharaism:20160413105829j:image
→善人は自分で修行をして煩悩を消し去り悟りが開けるが、悪人はそれができないから救いが必要である。

個人的には「昔は悪かったけれども今は幸せにやってます」みたいなドキュメンタリーが苦手なんですけど、人を救うという役割を持った宗教はより多くの人を対象としなければならないので、感情が優先される解釈だと誤解されますよね。

f:id:ebiharaism:20160413110431j:image
f:id:ebiharaism:20160413110451j:image
↑先ほどの解釈を図解したものがこのフリップ。
悟りを開いて善人になることを対象とした旧来型の仏教とは違い、「他力」は悟る事ができない悪人を対象としたものです。

正機=仏の救いを受ける本当の対象
傍機=傍の対象

f:id:ebiharaism:20160413111500j:image
冒頭の言葉とリンクしていますね。
煩悩がある人間は全員が悪人とされるならば、果たして自分はどうなのか?
悪人正機」とはそういう意味だったんですね。

f:id:ebiharaism:20160413111029j:image
また、仏教はどんな行為も偏ったらダメという性質を持っているのだそうです。


迷いがあるから救われる

f:id:ebiharaism:20160413112033j:image
 第九条では唯円親鸞に悩みを相談する場面が描かれています。
f:id:ebiharaism:20160413112324j:image
親鸞「(╭☞•́⍛•̀)╭☞それな」

f:id:ebiharaism:20160413112531j:image
親鸞「しかも、それさえ煩悩なんだぜ」

f:id:ebiharaism:20160413112629j:image
f:id:ebiharaism:20160413112704j:image
苦悩の旧里はすてがたく いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候ふ
例えば宇宙戦艦ヤマトのヒゲのおっさんが「地球か…何もかも、みな懐かしい」と言って事切れたけども、地球というのはまさに苦悩の旧里ですよね。
前回、親鸞は死ぬまで「悟った」と言わなかったというフリが効いています。


社会の中の悪人

f:id:ebiharaism:20160413114003j:image
f:id:ebiharaism:20160413114017j:image
親鸞は僧侶でありながら皮とか骨とか身につけていたそうな。
この背景には当時の生活が影響しています。

f:id:ebiharaism:20160413114204j:image
親鸞は平民と同じ高さで世の中を暮らしていました。

f:id:ebiharaism:20160413114247j:image
f:id:ebiharaism:20160413114526j:image
その中には殺生をする者や商いをする者がいました。
仏教において殺生は悪とされていますし、商いは煩悩でもあります。
番組の冒頭で釈先生が言っていた「悪人はそれができない」という言葉を「そうしないと生きていけない」と言い換えると、悪人正機がスッと腑に落ちました。

f:id:ebiharaism:20160413115255j:image
f:id:ebiharaism:20160413115312j:image
f:id:ebiharaism:20160413115325j:image

現代社会の閉塞感というのはライフスタイルの提示がなされていないことが原因の一端だと私は思います。
島国根性に基づく全体主義が経済効率化に拍車をかけてどんどん自らの首を絞めているのが現在なのだと。
そんな中で、けたたましく軋んでいる全体主義の塊にブレーキをかけるのが哲学や宗教であって欲しいと私は思います。


釈先生のコラムが更新されてます。ぜひ一読あれ→名著53 歎異抄:100分 de 名著