第三回は、「人間の本性は邪悪である」ことを前提としたカントの平和論が、「自然の傾向性」を生かしながら、どうやってその「悪」を抑止するのかを明らかにしていく。
自然の摂理が平和へ導く
人間の本性=nature
自然の摂理=nature
人間も自然の一部として捉え、放っておけば戦争をする性質を持つ生き物として見る。カントは自然の摂理が平和を保証していると考えた。
- 自然は人間があらゆる地方で生活できるように配慮した
- 自然は戦争によって人間を人も住めないような場所に移住させた
- 戦争によって人間が法的な状況に入らざるを得ないようにした
極寒の大地であってもトナカイなどの動物がいれば人間は生きていくことができる。ではなぜ、そんな生活しにくい環境を選び人間は生きるのだろうか?
カントは戦争の他に理由は考えられないとの結論に至る。
邪悪な人間も戦争により敵対集団が増えるごとに味方と団結しなければならない。この環境の変化により法が必要不可欠になった。
永遠平和を保証するのは偉大な芸術家である自然、すなわち〈諸物を巧みに想像する自然〉である。
自然の機械的な流れからは人間の意志に反してでも、人間の不和を通じて融和を創り出そうとする自然の目的がはっきりと示されているのである。
萱野)どんな邪悪な人間も脅威を及ぼす外的が現れると団結せざるを得ない。
伊集院)聞きようによっては、平和になる為には戦争が必要とも聞こえますよね?
萱野)そう読んでしまうと積極的に戦争を行うようになってしまう。カントが言っているのはそもそも人間が争わなければ「平和を構築しよう!」とは思わないということ。戦争をする傾向があるから平和への意識ぐ高まると指摘しています。
また、カントは道徳や理性の導きだけでは平和は作られないとも考えました。
何らかの人間の本性、自然的傾向に裏打ちされなければ平和は達成されない。人間の本性にプラスだから戦争をやめて平和に向かうと証明しなければ絵空事になってしまいます。
だから、人間の本性が邪悪であることを理性によって活用すれば平和は導かれると考えたのです。カントの哲学は人間の本性による裏付けがなければ理性や道徳できれいごとを言っても実現しないということです。
自然の摂理は国家と国家の間にも作用する。国家は自己利益のために他国と貿易をする。そして、自国が他国よりも多くの利益を得ようとする。
そうすると他国と仲良くしていたほうがいいとどの国も考えるはず。
例えば、中国とアメリカが戦争すればアメリカ国内のスーパーマーケットから中国産の商品が姿を消す。一方の中国も最大の輸出相手国を失うことで経済的に大きな損失を負うことになる。
つまり、戦争はどちらの国にも利益をもたらさないと言える。経済的な交流が戦争を抑止するというのがカントの考えである。
他方ではまた自然は互いの利己心を通して諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。
これが商業の精神であり、これは戦争とは両立できないものであり遅かれ早かれ全ての民族はこの精神に支配されるようになるのである。
人間の利己心を満たす2つのベクトル
- 暴力による収奪
- 非暴力による法と商業活動
萱野)ここには植民地支配をどう否定するかという問題が含まれています。
宗主国が植民地を維持するために支払うコストの方が高くついてしまい、20世紀の半ばにほとんどの植民地は独立しました。
これは短期と長期の違いでもあって、国を攻めるよりも時間軸を長くすることで利益を得ることができると考えれば法を作り、人々が交流するほうがいいだろうとなります。
伊集院)僕はマネージャーと仕事の方向性に関する会議をする時によく言うのは「得する仕事をお願いします」と言います。ただ、この「得」は目の前のギャランティではなくて、ここで学んだことが後々実になるのであればお金には代え難いとか、若いスタッフと仕事をすることが後に実を結ぶのであればその時の労力や拘束時間とは関係ないと考えます。
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萱野)経験を積むことで短期的な利益よりも利益を最大化する方向へ向かっていきますよね。そこに人間の知性や理性を働かせましょうということです。
戦争をせずに問題解決をすることが「それぞれの得になるような環境整備をするにはどうするのか?」ということが導き出されますよね。
共和的体制国家とは…
国民主権=民主主義国家
共和政体とは行政権が立法府と分離されている国家原理であり、専制政体とは国家が自ら定めた法律を独断で執行する国家原理である。
日本とドイツの例
昭和13年に国家総動員法が制定されたことで行政権と立法権が一体化し、戦争へと突き進みました。
ドイツでは1933年に全権委任法が制定されました。
全権委任法によりドイツの運命は一人のヒゲによりどうにでもなる事態へとなったのでした。
そういえば今年は「帰ってきたヒトラー」が公開されましたね。
行政権と立法府の分離
伊集院)感情と理性を分けて感情のままに行動できるシステムにしてはいけない。ましてや、本性の部分でどうしても戦争をしてしまうのが人間で、その人間が作った国家はよけいにキチンと分けておかないといけないという事ですか。
萱野)やりたいことを自由にできないようにするにはルールを作る人とルールのもとで行動する人を分ける必要があります。これがカントの言う立法権と行政権の分離ということです。
行政権は立法権に基づいて行動するわけですが、例えばサッカーの試合で一方のチームの選手が自分たちでルールを作りながらゲームをしたら、相手のゴールを無効にするルールを作るでしょう。
ルールを作る人と執行する人を明確に分離することが国家の暴走を防ぐ一番の方法ということです。
磯野)その立法権と行政権の分離を維持するにはどうすればいいのでしょうか?
萱野) 議会で法律を選ぶ人間を選ぶ権利は私たちにあります。これを形骸化させないために権力の監視を強めるとか、選挙で投票する際には立法権と行政権を分離してくれる人を選ぶ必要があります。
結局、国民が誤れば国も誤るということです。
伊集院)直積的利益と長期的利益を日常の中で考えれば、選挙に行くことは自分にとって長期的利益だと思ったり、この人に投票することが自分にも国家にとっても利益だという正しい判断ができればそこから国は変わる…
磯野)ええ…
伊集院)…っていう気がしました。
以上。
今回は過去の歴史をもとに国のあり方について考える内容でした。特にナチスの全権委任法についてはより多くの人がこのリスクを共有すべきだと感じます。
しかし、残念ながら日本で行われる民主的な選挙は今年の夏が最後だと私は思っています。霞ヶ関の人事権を内閣が握っていることと、神政連加盟議員が過半数であることが主な元凶でありますが、問題は国民にもあります。
自民党の改憲草案において緊急事態条項は全権委任法そのものなのに、選挙ではほとんど論点にならなかったし「3分の2議席」の意味さえ有権者は理解していませんでした。マスコミの責任ももちろんありますが、根本的に個人が学ぼうと思わなければ何を言っても馬耳東風です。
選挙後すぐに議員の任期延長の話が出ましたし、自民党内で数少ないハト派の谷垣議員が謎の大怪我を負い党内のブレーキ役がいない状態です。
共謀罪についても秋の臨時国会でスピード可決させるつもりであるとの情報もあります。東京五輪後の日本は自らスクラップ&ビルドの戦争経済を選びそうで気味が悪くて仕方ありません。
ただ、一つ希望があるとすれば未来は変えられるということでしょうね。