モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

100de名著 第三回 「実存主義とは?」 Adieu.Sal auds



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早いもので、サルトル実存主義についての特集も三回目となる。
第一回目は我々は現在にしか存在できないという事、第二回目は不安定である事が自由の証明であることが説明されてきた。
そして、今回は自分の自由と他人の自由に対する考察が論点だった。
面白いですわぁ。


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↑自分というのは主観と客観によって存在するという点で、自分を捉えるには「他人から自分がどう見えるか?」ということが鍵になる。
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サルトル「存在と無」という本に書き記したという。
ブックオフに置いてないですかね?
ピケティの本の隣ぐらいにありそうじゃないか?

お巡りさん、この人です!

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↑これというのはつまり、前回の「完璧な瞬間」が他人の介入によって不完全なものになってしまうとも言えるのではないか?

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この「関係される」というのを「自分とは違う価値観で評価されること」と言い換えると、嫁姑問題における『洗濯物の畳み方が違う』ではなかろうか←分かるか

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『自分はテレビを見て勉強しているつもりでも、側で見ている親からすると勉強をせずにテレビなんか見て!と思うかもしれませんね』と伊集院さんが分かりやすく比喩してくれた。

さらば、ゲスどもよ!コポゥ

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中井貴一にしか見えないロカンタンは、ある日、美術館へと足を運びました。
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そこには偉人達の肖像画があり、ロカンタンは彼らの視線を感じます。
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ここに描かれた誰一人として、独り身のまま死んだものはいなかった。
誰一人として子どももなく、遺言も示さず死んだものはいなかった。
誰一人として臨終のひせきを受けずに死んだものはいなかった。
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朗読は川口覚さんです。

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私は部屋の真ん中にいて、これら全てのいかめしい視線の標的になっていた。
私は祖父でもなく、父親でもなく、夫でもなかった。
選挙の投票には行かなかったし、税金はいくらか払っただけだ。
納税者の権利も、選挙民の権利も誇ってみせることができなかった。
20年間ぺこぺこすることで勤め人に授けられる信望へのしがない権利さえも。
私は自分の生き方にひどく自信を無くしかけていた。
私は単なる見かけにすぎなかったのか?

(しかし、正面から絵を見ると…)

突然、彼の眼差しは弱まり、絵は輝きを失った。
後に何が残ったか。
穴のない目。死んだ蛇のような、うっすらとした唇。
それに頬だ。青白くぽってりとした、子どものような頬だ。それが絵の上に広がっていた。

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私は後ろを振り返った。
さらば美しき百合の花よ、それぞれ色付きの小さな聖域におさまっている光妙な百合の花、さらば下衆どもよ。
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肖像画の前に立ったロカンタンは、自分の存在を知るために偉人達の視線で自分を見ました。
そこから見える自分は「無価値な人間」だった。

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そして、再び自分の視線から肖像画を見ると、そこに描かれていたのは、光を失い年老いた老人の顔であった。
捨て台詞は「Adieu.Salauds.」
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「まなざしの決闘」とは自分の自由と、他人の自由の衝突で他有化されることで疎外感(異なる価値観で他人よりも自分の価値が低い状態/仲間はずれぷぎゃー)になるわけか。

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自由であり限り、避けようのない受難。


まなざしの逆転

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詩人のジャン・ジュネは幼少期に窃盗をしたことがあり、周囲の大人からは泥棒とさげすまされた。
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しかし、子どものジュネには泥棒というのが分からず「自分は泥棒なんだ」と他人の価値観を受け入れて育つ。
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そして、世界は平等ではないことを知り、様々な社会運動に率先して参加していったそうな。
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↑これは解釈が難しい。
ジュネの場合、泥棒という価値観がなかったので、受け入れた時点では「自分は泥棒であるが悪い者ではない」という認識だろうか。
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抑圧と差別についてはタイムリーな問題で、テロリストの無差別殺人と連合国の大規模な空爆は同意義ではないか?という意見が話題になっている。

「自分達よりも知的レベルの低い人間は奴隷にしても良い」という白人の考え方は気持ちが悪いし、論理的な思考を持たずに人間の命を組織のプロパガンダに使う武装勢力もどうかしていると私は思う。
本来、宗教は人間を災難から救い、自由にする為のものであったはずが、ユダヤのように「約束の地」を目指すことがパレスチナでの殺戮に繋がるプログラムになっている。
それに、フランス軍の空爆が始まってから、フランス製の戦闘機の受注が多く、デンマークなどが契約したそうじゃないか。
とどのつまり、1%の人間達が99%の人間を利用しているだけにすぎないのだ。
99%の人間が肌感覚でこれに気づいた時に、地球上から一瞬だけ銃声が止むのではないか。
なぜ一瞬かといえば、常に不完全な人間はすぐに忘れてしまうからだ。

次週で最終回ですね。