モブトエキストラ

左利きのメモ魔が綴る名もなき日常

「R62号の発明・鉛の卵 /著 安部公房」の感想

「ノックの音が / 著 星新一」の感想 - モブトエキストラ

先日、本屋に行った際に『ノックの音が』と一緒に購入した一冊です。
なかなか『砂の女』を超える小説に出会えず、また安部公房作品を見ていた時にこの作品を発見しました。

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帯にはピース又吉が愛してやまない20冊!」の文字が。でも、以前に読んだサキ短編集は私にはハマらなかったなぁ。
「サキ短編集/著サキ・翻訳 中村能三」の感想 - モブトエキストラ

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会社を首にされ、生きたまま自分の「死体」を売ってロボットにされてしまった機械技師が、人間を酷使する機械を発明して人間に復讐する『R62号の発明』、冬眠器の故障で80万年後に目を覚ました男の行動を通して現代を諷刺した先駆的SF作品『鉛の卵』、ほか『変形の記録』『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』など、昭和30年前後の、思想的、方法的冒険にみちた作品12編を収録する。

私が気になったのは『R62号の発明』よりも『鉛の卵』です。ふつうに考えて、鉛でできているのであれば殻を割る事ができないですよね。「『箱男』の亜種か?」なんて。
それと、私は子どもの頃から卵とかカプセルが好きなのです。恐竜の卵やら、ポケモンモンスターボールやら、ドラゴンボールのポイポイカプセルやら。外観のデザインと、何かが出てくる期待値を合わせて好きなんです。

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今でもこんなドット絵を描いてるわけですが、もしかしたら『鉛の卵』のストーリーが私のドット絵をパクってる可能性あるんじゃないか?←自己中の時系列
久しぶりに読むのが楽しみな本に出会った気がします。

R62号の発明

P8
死ぬつもりになって歩いてみると、町はあんがいひっそり、ガラス細工のように見えた。

失業した機械の設計技師が死のうと決めて運河を見つめているシーンから物語は始まります。冒頭最初の一行には、猫の死骸が浮かび、腐敗臭すら立ち込めてくるような風景が、死を決意した事で儚いものに見えるという死者からの視線が描かれています。ここには主人公のビフォアアフターと、生きながらにして死を決意している主人公と本物の死を迎えた物言わぬ猫の対比がある事に気付きます。
そんな主人公の前に自殺者から死体を譲り受けるバイトをしている学生が現れます。主人公は自殺の目的を脱出だと考えてその話に乗る事にしました。ここで作品タイトルの「R62号」と書かれたカードを手渡され、後日指定されたビルに向かいます。

〈登場人物〉
草井→契約係兼所長
花井→女性秘書
ドクトル・ヘンリー・石井
助手と看護婦(現在では看護師ですね)

主人公が契約を交わしてしまったのは「国際Rクラブ」という組織で、彼らは日本のエリート層を相手に自動人間を売りつけるという目的を持っていたのでした。

P24
いま頭蓋骨にドリルで穴をあけ、糸ノコを入れてひきおわったところだ、これから頭蓋骨をはがすのだと、若やいだ張りのある声で男が答えた。

死んだ肉体を改造するのではなく、生きながらにして手術をされるというグロ描写が展開されます。脳の電気信号を機械と繋げるというのは現代医療にも通じますが、この描写はキューブリック作品だとかロボトミー手術を想起させます。
全く世代ではありませんが、もしかしたら子どもの頃に「仮面ライダーのショッカーに攫われて改造人間にされたいなぁ」と考えた事がある人にはたまらないシーンなのかもしれませんね。笑

P43
「わがクラブの事業計画としましても、将来は機械の血液成分たる大多数の人間を、すべてロボット化することになっておりますが、まずその手はじめとして、技術ロボットを完成した。それがこの62号なのであります」

新作iPhoneの発表会のようにエリート層の前でR62号がお披露目されます。
Rはロボットという意味(頭文字がRならば何でもいいニュアンスも)ですが、手術が終わってからR62号となった技師が詩的な表現をするシーンがあるんです。これは恐らくフランケンシュタインのオマージュだろうと思います。
あと、R62号は身の回りの世話をしてくれた女性秘書を抱こうとするシーンがあって、自由意志が命令に掻き消されるんですね。その時に『頭の中でふいに草笛がなった』と表現されていて、これってアイザック・アシモフロボット三原則における「ロボットは人間に危害を加えてはならない」がプログラミングされているのではないかと思いました。
花井はいつの間にか姿を消して詳しくは書かれていませんが、恐らくセクサロイドに手術されたのでしょう。
このあとR62号はM銀行の老頭取に貸し出され、それ経由で元々主人公が勤めていた高水製作所(高水社長は主人公をクビにした張本人)で新式工作機械を作るように命令されます。

P50
二本目の指が飛ぶと、高水はAとOの中間の声で吠えはじめた。高水の心にあるのはただ、集結した労働者たちが門を破って送電室を占領し、配電盤のスイッチを切ってくれる夢だけだった。機械のうなりにまじって、アメリカに売るな! と叫ぶ労働者たちの声が聞こえるようにさえ思った。血とも汗とも分からない。全身がどろどろになっていた。

このグロ描写に至るまでに、R62号に与えられた『命令の中にある解釈の自由』を基盤にして文章が構成されている部分が面白いんです。具体的に言うと

  1. 複雑な仕事ばかりが必ずしも目的にかなったことではない
  2. 一番コストの安い人間をどう利用するかということ

組織とエリート層からしてみれば「効率化させる事」「代替可能な労働者をどう使うか」を解決させるための命令だったわけですが、R62号は「人間に複雑な能力を機械の方から強制し、ふんだんに人間を使うような機械」を作ったのです。

  1. 30個以上のボタンの中からグリーンのランプが点灯したものを押さなければならない
  2. 4時間は止まらない
  3. 2.4秒遅れたら指が切断される
  4. 10回以上押し損ねたら胸を刺されて死ぬ
  5. 地でランプが見えなくなったら、一番下にある赤いランプを押すとメタノールで洗浄される

P50の引用文は主人公をクビにした高水社長が機械によって切り刻まれているシーンで、組織の『R』と血の色の『レッド』『レッドパージ』の『R』がかかっていますね。
この機械に恐れた組織の会員たちは足がもつれながらも逃げ出し、部屋の中に残った生者は所長のみになります。
「何をつくる機械だったんだ!」と所長がR62号に怒鳴りますが、R62号の前にあった顔は蒼くひきつり唇を痙攣させるだけでした。

この最後のシーンは読者への問いかけにも見えるし、R62号が生前自分をクビにした所長に手をかけた断末魔のシーンにも見えますね。死者に対して怒鳴りつけるという滑稽な行為が次の瞬間には静寂に包まれる。死を生産するお望みの結末が提示されて終わるのです。
奴隷を作り続け、非人間的な振る舞いをする資本主義こそが機械的であって、そこに機械が逆襲する事で人間性とは何かを浮き彫りにするという、カオスと痛快さがありました。

パニック

主人公は32歳の文系のまじめな男。彼には妻がいて、家庭を養うために消費できる猶予はすでにありません。
職業案内所の出口でパニック商事の求人係だと名乗る男に話しかけられ、カードを渡されます。今夜8時、そこに書かれている場所に行きK氏に会えと言うのです。

P58
目をさましたのはもう夜明けだった。
〈中略〉
どこかアパートの一室であるらしい。
〈中略〉
起上ろうとして、手をつくと手の中がぬるっとした。ぬるっとしたものの中に、乾いてガサガサするものがあった。
電燈をつけてみた。つけると同時に、すぐ消した。その一瞬のあいだに見たものを、私はしばらく信じることができない。血……血……血……。

P59

まだ手にこびりついている血に気づいた。ハンカチを出して、鼻にあて、いかにも鼻血になやまされている人間らしくよそおってみたりする。部分的には、私もかなり注意深かった。しかしこれは、要するに獣の注意深さで、たとえばナイフの始末をしてくるべきだったという、分りきったことでさえ、気づいたのは、もつ電車に乗ってしまった後だった。

Kに酒を強要され、記憶が無くなるほどの悪酔いをして、知らないアパートの一室で目を覚まします。
この引用文の部分の表現力は秀逸で、気が動転する中にも捕まりたくないという意識があって、非日常的な空間から日常に戻るために擬態してるんですよね。でも突発的なものだから、完全犯罪には程遠いし、そもそも自分がKを殺した記憶はないのに、血だらけの空間とナイフという状況証拠がナイフよりも鋭利に主人公の無意識に刺さっている。

「あれれれれぇ? この人、本当に犯人なのかな?」

ここで私の中のバーローが推理を始め『SAWと同じでKは死んでいないパターン』に賭けて読むことにしました。(真実はいつもひとつ!)

この後、主人公は家に帰って妻と会話もしないまま布団の中で寝込んでしまい、夕方に再び目を覚まします。新聞に殺人事件のことは載っておらず、ポケットの中には二千円が入っていました。
この後、900円を家に置き、残りの1,100円で電車の移動、タバコ、蕎麦、夜泣き蕎麦、映画二回、一泊に使います。
移動中は誰かに尾行されていて、気の休まる瞬間なんて無いのでしょうが、現代の物価からすると1,100円で映画も見れるだなんてけっこう充実した内容に感じますね。
ちなみにこの小説が書かれた昭和29年について検索してみたら、マリリンモンローが来日したり、自衛隊が発足したり、モスクワで世界初の原発が稼働、第五福竜丸事件、ゴジラ公開という戦争の傷もありつつ、今に繋がる出来事が並んでいました。

物語に話を戻しますが、お金の無くなってしまった主人公は無意識のうちに盗みを始めてしまいます。これは「自分は殺人犯である」という事から未来がなく、逃避行する資金を調達するための手段と解釈できます。
盗みをする中でも一足320円になる革靴に狙いを絞り、盗まれたところで問題なさそうな豪華な門構えのお宅に侵入しました。運の悪いことに秒で見つかってしまい、40代ぐらいの女性(髪の毛はくしゃくしゃで鼻の穴が大きい)に叫ばれます。困った主人公はとっさに立て掛けてあった鉈を手に取り静かにしろと脅しますが、それは逆効果で女性はさらに高い声で叫びます。男は鉈を女性に投げつけると顔に刺さり、叫び声に駆けつけてきた犬が流血する顔をペロペロと舐め、グロ描写に主人公はゲロを吐きます。(なんというシーンだ…笑)
そこへ主人公を尾行していた男がやって来て、例のアパートへと場所を移します。主人公は男の事を刑事だろうと思っていたので、ここで殺してしまおうと考えます。もう殺人犯に染まってますね。
でも、目の前の刑事と思われた男は変装を取り、死んだはずのKが姿を現わすのでした。

\(^o^)/当たったー!

なんかくれー!!
この時点で私の中には謎の達成感があり、話の内容が入ってきませんが、主人公はKから全ては泥棒を生業とするパニック商事の適性テストで、見習い期間中は月に8,500円払うと説明されます。しかし、主人公は嫌だと言って逃げ出します。社員で無くなれば絞首刑になるぞと言われても主人公は走り去ります。

P70
犯罪者はまことに生産の発展にコウケンするものである。泥棒が錠前を発達させた。贋金作りが、お札の印刷を発達させた。詐欺が顕微鏡の需要をました。犯罪者は社会のために不可欠な要素である。

Kが言った通りに警察に捕まった主人公はアパートの事を話しますが、管理人は
その部屋は空室だと言います。どうにか組織の存在を証明するためにKから貰った社員心得の紙をポケットの中で探りますが消え失せています。そして、とうとう妻を呼ばれて手錠をかけられた夫の姿を見た妻は泣き崩れ、最後に主人公は、2人組の刑事の片方はパニック商事の人間だったのではないかと思うのでした。
途中、長くなるので端折りましたが妻のお腹の中には赤ちゃんがいます。←最後に書くと一層、後味の悪さが際立つ笑

全体のおさらいなんですが、そもそもこの物語は主人公が失業者に向けて書いた失敗体験なんです。その冒頭部分に『せっかくの職を棒にふったばかりでなく』と書かれていて、つまりは『パニック商事から勧誘されたら大人しく入社したほうがいいぞ!』というのが主人公にとっての成功である事に気付きます。
途中は芥川龍之介羅生門を意識したのかなぁと思って、「善から悪の門をくぐった主人公は善の側に戻ろうとしたけど引き戻された」みたいなイメージを描いていたのですが、考え直してみると違いますよね。善に戻ろうとした事を後悔してるわけですから。
とすると、この物語の本質は「個人の一生は見えない巨大なものに左右される」という部分にあるんじゃないか。それこそ、これが時代背景にある貧困や孤児といった戦争の残り香なんじゃないかと。
多くの人の心に自然災害による喪失感があり、真面目な官僚たちが政治家の下僕となって公文書やGDPを改ざんし、企業の耐震偽装、燃費、建築基準諸々、バラエティに富んだ腐敗臭が漂う現代にはピッタリの作品でした。

この物語は短いのにぶっ飛んでいるので理解が難しいです。
分かりやすい部分だけで説明すると、「犬嫌いの主人公が犬を飼っている女性と結婚して、一緒に生活しているうちに犬が何を言っているのか分かるようになり、果ては妻より犬のほうが可愛くなって、呆れた妻が出ていってしまった」という話です。
次にぶっ飛んだ点を3つ挙げます

  1. 女性は主人公が勤める美術研究所で常に裸で歩いていた。
  2. この女性は現実美術会のF君のお気に入りで、肉体を物化、モデル化するための訓練と称して常に裸で歩きまわっているが、実際のところ研究生に抱きつかれている。
  3. 主人公はこの女性をセンスもなく頭も悪く、何の取り柄もないと思っていた。
  4. 彼女の犬はアメリカ兵が連れてきたドイツの牧羊犬で、近親交配で生まれたため、頭が大きく細長い胴体をしているので喜んで尻尾を振ると頭の重さで宙返りしてしまう。
  5. それを主人公はウジ虫みたいな犬とボロクソに評価している。
  6. 犬に酒をやるとかなり飲み、古新聞を自分で敷いてそのうえで用を足し包み込む事もできる。

P84
やつは言った、犬だってそう馬鹿にしたもんじゃないんだよ、人間が何を考えているかくらい、ちゃんとわかっていたんだよ、あんたはさんざん私を馬鹿にしていたね、しかし私にだって立派な犬歯があるんだよ、人間の皮をはぎとるくらいわけはないんだよ、あれは処世術というものさ、甘えたふりをしたって、するだけの計算はしてあったし、腰をぬかす真似だって、ちゃんと計算はあったんだ、いいかげんにしないと、ひどい目に合わすわよ、あんたなんかに、私をしばりつけておく資格はないんだから……

ぶっ飛んだ部分を踏まえると、男尊女卑も甚だしいし、女性と犬を所有するという意識の主人公に愛情が芽生えたとは思えないんですよ。ボール投げをするとか、赤ちゃん言葉で話すといった愛情表現のシーンは微塵もありませんからね。
だから解釈の仕方は「妻に逃げられた犬好きの男が強がって書いてる」「馬鹿な妻が飼っていた犬とは思えない知性を持った生き物に支配される話」「物語とは別に存在する何かの比喩」の3つだと思います。3つ目の比喩に関しては、大日本帝国ナチスドイツとアメリカの構造かなぁとか考えたのですが、ストーリーの流れから言って無理筋に感じ、結論としてはお手上げ状態です。笑
ぶっ飛びすぎてて付いていけませんが、感想のまとめとしては、愛妻家であり、飼い犬に「結婚してくれ!」と言ってしまうほどの愛犬家の関根勤さんが読んだら、輪島さんのマネしながら安部公房を殴ると思う内容だと思いました。

変形の記憶

P90
ぼくは自分の死体をいとおしく思い、すこし悲しくなった。ぼくを射ち殺した小さい少尉は、ぼくの死体を足でころがして、道ばたにおしのけようとした。「よせよ、コレラがうつるぜ」と、トラックの上からべつの将校が声をかけた。彼はあわてて足をひっこめ、トラックにもどった。

タイトルからカフカの変身のパロディ作品なんじゃないか?」なんて予想して読み始めたら全く違いました。まさに『変形の記憶』が書かれていて、上記引用文は物語の内容と変形の意味が分かる部分です。
終戦前日の8月14日、中国(満州ね)のどこかで、コレラにかかった主人公Kは飢えと渇きのなかで、将校たちに殺されます。
少将、中佐、少尉2人という構成で少将はクズです。

P99「わしは、国に帰って、金魚を飼わなけりゃならんのだ」

中佐もクズキャラ。

P93「戦場では、兵隊を人間とは思うな、兵隊は銃の引金をひく指だ。」

少尉2人のうち手足が長く眼鏡をかけているのが南という名前の少尉で、小柄で色黒の少尉が主人公を射殺し、南少尉も射殺されます。
この集団は本土が敗れても闘い続けるための軍資金が積まれていて、のちに陛下と合流するために山に向かっています。その会話の中で中佐が軍資金を現地人が狙っていると言い、それに対して南少尉は戦争は終わったとみんな思っていると反論(感染者を殺すのは兵隊を救うためであって、戦争が終わったのにどうして現地民を殺さなければならないのかという正論)します。それで少将が心配だ(金魚の話につながる)と口にして、色黒の少尉が忖度して南少尉を射殺したのでした。
この場面を見るとコレラとはバカのヒエラルキーの上位者が抱える『不安』の事であると読めますね。
一度決めた事は変更できないという、日本人の愚かな国民性が読んでいて痛々しく、今もバカのヒエラルキーが組織腐敗を堪能していますから「日本を取り戻す」というフレーズはある意味その通りで。
具体的には書かれていませんが少将も恐らくコレラに感染していて、中佐が敬礼したあと色黒の少尉に射殺されます。それを見ていたKと南少尉は少将の幽霊に駆け寄って、3人で目的地のP町へと歩きます。その途中に浮浪児が居て、少将はその子供の魂と入れ替わって身体を盗みます。それを見ていた2人は「少将は以前にも罪を犯して身体を盗んでいたのではないか?」と考え、浮浪児の幽霊と一緒に浮浪児に成りすましている少将を監視する旅を続けるというラストを迎えます。
悪人はひたすら悪人として純粋に盗み続けるという部分に救いはありませんが、主人公のKと南少尉と浮浪児は「もしかしたら自分たちも生き返る事ができるんじゃないか?」という希望があるわけです。でもそれは悪人になるという事で。
途中飛ばしましたが、惨殺された現地民もまた幽霊になっていて日本人に対する憎しみの塊として描かれています。物語の構成として『悪は姿を変えて生き長らえる』というオチがあるわけですが、その一方で憎しみは固定化(呪縛霊と言ったほうが分かりやすいですね)しているわけです。つまり、殺された人々は誰かの身体を盗むという事をしてない。これがP98のーー

「やつらは、われわれの軍資金をねらっているのだ」

ーーという言葉にかかっていると私は解釈しました。
それにしても頭に描いていた内容と違ったので、よけいに綺麗な自然の風景描写と、何のために死んでいくのか分からない人間のグロテスクなシーンの対比が印象的に映りました。

死んだ娘が歌った……

P125
東京には、数えきれないくらいの人がいて、数えきれないくらいの町があるのに、どの人もどの町も、見分けがつかないほどよく似ていて、いくら歩いても、同じところにじっとしているような気がして、ちょうど海のような町なのです。どこにいても、いつでも、みんなが道に迷っているのです。

「綺麗な表現してるだろ? こいつも死んでるんだぜ?」
残念ながらこの物語の主人公も死んでいます。
死にたい気持ちであったり、ゼロに戻りたい感覚というのはとてもよく分かりますが、安部公房が殺しすぎてだんだん面白くなってきました。
しかしながら、この物語もごくごく普通の一般人がそれぞれに自由に生きようとするのと反比例して経済的な負担であったり、社会通念みたいなものが、機械的に小さな声を潰していくような感じがして切なかった。でも『変形の記憶』の中に美しさがあったように、この作品もラストに死んだ人々と主人公が幽霊になりながら遊びまわって終わるんです。
心から笑える事って重要ですよね。それを描く作品には生命の賛歌があると思います。

盲腸

P161
「いいですか、来月の学会は飢餓問題に関する二つの大きな原理の決戦場になるのです。その勝敗の鍵をあなたが握っている。あなたはこの問題を真剣に考えたことがありますか?」

この物語は羊の盲腸を移植されたKと、その人類の飢餓を占う研究を軸にストーリーが展開されます。
Kには妻と息子がいるのですが、移植後に食卓を囲むシーンではKが藁を食べる事に没入してほとんど会話のシーンはありません。飢餓学会の発表が間近に迫り、報道が過熱すると妻と息子は名前を変えて遠い何処かの町に引っ越していきます。この時点でKの中には人類の希望という役割しか残されていないのがポイントで、その後に国が羊の盲腸の移植手術を推奨して義務化、Kは一躍有名になります。しかし、羊の盲腸は鉛色に変色して摘出され、Kは人間に戻り名もなき失業者になったのでした。
結局、殺すんかーい!笑

P179
「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん……」という叫び声が聞えた。私の子供たちのようでもあったし、ちがうようでもあった。この雑沓の中の、何千という子供たちの中には、父親の名を叫んで呼ばなければならない子供がほかに何人いたって不思議ではない。

この『棒』という作品に関しては、天才がかっているように感じます。テッド・チャンの『ゼロで割る』を読んだような不思議な感覚に陥りました。
「あなたの人生の物語/著 テッド・チャン/訳 浅倉久志・他」の感想 - モブトエキストラ
ズラズラ書くと記事が長くなってしまうので、あくまで私の解釈であらすじを書くとーー
妻に逃げられた父親がデパートの屋上で2人の子供をあやしています。子供たちが四六時中喜怒哀楽を爆発させるのと同じように、父親は四六時中死にたかった。そして、手すりから身を乗り出して落下。その途中、父親の身体は手頃な1mほどの一本の棒に変化し、地上に刺さりました。

子供たちのイタズラだと思って怒っている横で人間に化けた神様と2人の天使が足を止めます。神様は棒となった主人公を手に取ると、この棒から分かる事は何なのか天使に対して問います。問答を繰り返すうちに、この棒は最初から棒であって、罰を与えるには転がしておくのがいいと言って転がし、男には子供の泣き声が聞こえ続けるのでした。

めでたし、めでたし。えっ?

あくまで私の解釈ですが、あの世で自殺をどのように裁くのかというのが物語の中心にあるように思いました。神様と天使と書いたのも原文では先生と2人の学生です。そして学生は瓜二つの顔をしていて、根本的には同じでありながら異なる主張をします。私はこれを善と悪だと解釈しました。
でも、難しいので自信はありません。自分の理解を超えているからこそ面白いと思いました。

人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち

P188「人道上とかなんとかいうが、どうして人間が人間を食っちゃいけないのかね? もう何代も何代も、思い出せないほどの昔から、君たちは食われ、私たちは食ってきた。私たち食う階級は、君たちを食うために育て、改良し、繁殖させてきた。君たちあっての私たち、私たちあっての君たち、という関係だ」

タイトルとこの引用文だけでどのような内容なのか説明は不要でしょう。

ええ、そうです。カニバリズムが制度化されたディストピアです。

これまでにもカニバリズムに関する本や作品は読んできましたが、最近放送している約束のネバーランドというアニメがまさにこの作品と同じような内容なので偶然を楽しみつつ、「エマ!ノーマン!レイ!頑張れ!」と思いました。
主人公は人肉食用反対陳情団の代表者の小男で、最年長者である事から代表に選ばれました。
それに対応するのは政府の要人。黒い服を着て頭の禿げたの盲目の男、茶色い服にヒゲを生やした右脚のない男、灰色の服に左腕のない男の3人です。上記引用文は茶色い服の男が「人肉食をやめて欲しい」という陳情に対して反論する場面です。

要人たちは「家畜は食べていいのに、食べるために品種改良と繁殖された君達をどうして私達は食べてはいけないのか?」という主張を繰り返します。
代表者の小男は「人間が人間を食べる事が野蛮である事がどうして分からないのか?」と質問しますが聞き入れられません。茶色い服の男に関しては暴力的な支配は考えていないと言いながら、なぜこの合理的な考えが分からないのかと言います。(狂ってますねぇ)
灰色の服の男から最後に言いたい事はあるか?と訊かれた小男は、代表者ではなく父親として、13歳になる自分の娘がクジに当たってしまい、今日ハムにされてしまうので助けて下さいと懇願します。

P193

「つまらん」灰色の服は奥に通じるドアに手をかけて、「魚が水に溺れそうだってさわぐのを、まじめに受取る馬鹿がどこにいるものか。芝居だよ、芝居にきまっている」

小男が要人たちの前から退去させられたあと、屠殺場の労働者たちがストライキを起こします。要人たちはストライキという言葉を辞書で調べて(概念が忘れ去られるぐらい長い間その制度が続いていたという事)から慌てて逃げ出し物語は終わります。

なぜ人間を食べてはいけないのかという部分は『ミノタウルスの皿』に通じるものがあり、労働者と支配者のカーストに目をやれば動物農場を感じます。
政府要人の身体がそれぞれ欠損しているのはどういう意味なのでしょうか? 人間が人間を食べ続けた事で、先天性の異常が発生しているのでしょうか? この部分は分かりません。
 「たったの62人」大富豪が全世界の半分の富を持つ、あまりにも異常な世界の現実(週刊現代) | マネー現代 | 講談社(1/5)

ただ、世界の超リッチが人類99%の資産を握っているという現実があるので、バカな話として笑う事ができませんし、優生思想を振りかざしたナチスを支援したのは財界の人間だったりします。だから、この物語はゾワっとものを感じました。

主人公は秀太郎という若者で、母親が死んだ事を告げるため、母親の義理の弟の久木三男の元を訪ねます。久木は錠前工場の技術部長をしていて、奇妙な家の中で脈拍から嘘を見破る盲目の娘エスパー波子)と同居しています。そして、すったもんだありつつ、結果的に久木は錠前破りの悪人で捕まってしまうという物語です。
家の作りが不思議だとか、謎の女性が現れる感じとかが何処と無く『砂の女』っぽくて途中までは結構引き込まれたのですが、波子が嘘発見器という設定で「アーヤッチャッタヨ」と思いました。笑

耳の値段

早い話が保険金殺人みたいなもので、大学授業料を滞納している主人公と同級生が耳たぶに保険金をかけ、事故を装って耳たぶを切って保険金を手に入れようとするのですが、うまくいかずに逮捕されてしまうという話。…だと思うのですが、途中で「安部公房を知っているか?」というメタ発言が出てきたり、そもそも夢オチなのかとか、所々意味が分からない部分があってお手上げです。
わかんねー。

鏡と呼子

猜疑心に満ちた過疎の村で働く事になった新任教師が、人口流出(家出)をどうやって食い止めればいいのか考えていたら、下宿している家の婆さんがトラックに轢かれ、遺産相続を巡って5つの家族が村に帰ってきて、再び何も無くなるという話。題名の鏡と呼子というのは家出監視人と婆さんが連絡をとるためのツール。
正直あまり面白くなかったかなぁと。村社会の陰湿な部分であったり、見る・見られる事で生じる不自由は実存主義的な考え方だとは思うけど、他の作品と比べるとぶっ飛んだ部分が無いので普通に読めてしまいました。(もはや、普通に読めてはならない空気感あるわ笑)

鉛の卵

さぁ、いよいよ『鉛の卵』です。
楽しみにしていたその内容とは、奴隷族街の炭鉱にある古代炭化都市層から長さ4.5m 胴回り9mの卵形をした大きな鉛の塊が発見されたという話で始まり、それはクラレントという発明家が作った今で言うところの人口冬眠装置(コールドスリープ)です。
未来人たちは鉛の卵がいつ動き出すのかを賭けて遊び、経過を楽しんでいました。そして4日後の5時53分に古代人が目を覚まします。ただ、未来人は自分たちと違う姿形をした古代人を見て唖然とします。それでも古代人が叫び声をあげた事からコンタクトを試みる事にしました。
次に、今度は古代人の視点から物語が描かれます。彼は42歳の当時1987年2月1日の正午に装置に入り、2087年2月1日に目を覚ますようにプログラムされていました。自分の子孫達がその目覚めを万雷の拍手で迎えてくれる事を想像していましたが、未来では時間の数え方が変わっていて約80万年が経過しており、未来人の姿形は人間の形をしたサボテンのようで一人一人が異なる形状をしています。人間のように直立していて、顔にある小さな穴で囀る事でコミュニケーションを取っているようです。

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もうサボテンダーしか思い付きません。笑

未来人は万能翻訳機を用意して法廷でいくつかやり取りをします。その後、ケリという未来人に案内されて世界を見回ると、白い砂が一面に広がる中で緑色の市民達は幼児から大人まであらゆる賭け事を行なっています。絶滅した鳥の代わりに、鳥のような形をした空飛ぶピンク色の犬がいたり、ところどころにコンクリートで作られた溜め池が点在しています。

P332
この現代人には、住宅の観念がまったくなかったのである。二人が了解しあうまでには、かなりのやりとりが必要だった。彼らはただ色が緑であるだけでなく、動くということを除けば、生活までもすっかり植物化していて、体を静止させる以外には、休息も睡眠も必要とせず、しぜん家屋の必要もまったくないらしいのである。

どうやら50〜60万年前に大飢饉が起こった際、人体に葉緑体を移植する実験が行われ、適合した者が植物化した現在の未来人で、反対に適合しなかった者が奴隷族として生きている事が判明します。
お腹が減った古代人は食べ物を求めますが、未来人は胃から栄養を吸収する事をしません。そのうえ「食べる」という言葉は禁句で、空腹が限界に達した古代人は奴隷街のところへ行けば食事ができるのではと考えます。しかし、高い塀があって奴隷街には行く事ができません。ケリは犯罪でも犯さない限りはお客さんを奴隷街に追放できる事はできないと言います。
ここが面白いところで、未来人は長寿である事が悩みで皆んな死にたくて仕方ない。500歳にならないと死刑の権利も発生しないので、仮に殺人が発生しても喜ばれてしまうというのです。どうやったら犯罪が成立するのかも分からず、途方にくれて鉛の卵に帰った古代人は非常食の乾パンにジャムを付けて食べました。
しかし、それがトリガーで犯罪が成立して奴隷街の門が開きます。
そこには自分と似た姿をした奴隷族の男が立っていて、古代人が植物人にどのような反応をするのか一部始終を観察していたと説明し、そのうえ未来人は奴隷族と呼んでいるが自分達こそが現代人であると言って、古代人を鋼鉄の都市へと連れて行きます。
その風景を見ながら「果たして自分の正統な子孫は、姿形の似た現代人と緑色人のどちらなのか…」と錯乱し、大声で泣いてThe END

どんな内容なのか楽しみにしていましたが、私が描いたドット絵が本当にパクリみたいな話でビビりました。
(あのドット絵は、地球が壊れるから卵の中に遺伝子を詰め込んで地球に似た星に着陸した後に、AIが生命を復元するというストーリーを絵にしたもので、家で育ててる観葉植物をキャラクターのモデルにしました)
『鉛の卵』の中では賭け事しかやる事がない植物人間が支配者となっています。これは人間の姿さえ捨ててしまった資本主義の限界点を描いたもので、だからこそ奴隷族と呼ばれながらも現代人は「あんな姿にはなりたくないよね」というところで、戒めの象徴として生かしているように見えました。(奴隷族からしても彼らは頭が良いとは言っていたけど)
あと、主人公である42歳の男は人類の代表とかではなく、ただの一般人で妻を亡くした悲しみから妻の分まで幸せに暮らす子孫を見たいという気持ちがあったのだと私は読みました。
この作品が公開されたのは昭和32年=1957年ですから、安部公房は高度経済成長期(1955年〜1973年)の中で、30年後の1987年にはコールドスリープが出来てると考えていたのかもしれませんね。
あとは『棒』と今回の『緑色人』が似て非なるものである点は注目点で、独裁と新自由主義が表裏一体である事(価値観に多様性が無くなる)に通じる気がします。

おわりに

戦争と貧困、生活とグロテスク、資本家と労働者というキーワードだけでこんなに短編小説を書けるのは凄いなぁと端的に思いました。私だったら自分の中で優劣を付けてしまって「前にも同じような話書いたからやーめた」ってなるんですよ。高確率で。でも、安部公房に関わらず作品を量産する作家って、同じテーマでいくつも小説を書くじゃないですか。よくできますよね。「夏」ってキーワードだけでもサザンオールスターズとTUBEは存在し続けてますから、才能のある人々は裏山C。
がしかし!
今回も『砂の女』を超えませんでした。
というか『砂の女』が生まれるまでのプロトタイプなので「コレがあーなったのか!」みたいな感じで、逆に『砂の女』の評価が高まる可能性さえあります。
虫とミステリーと脱出と哲学で組んで、秀逸な文章表現をしながら読者の予想を裏切る小説があれば勝てると思うんですけど、なかなか見つけられません。
これは感想とは関係ないのですが、数少ない読書番組であるTBSの『ゴロウデラックス』とJ-waveの『BOOK BAR』が今月で終了するんですよ。そうなると『100分de名著』しか残らなくて、流行している作品を知るきっかけが無くなってしまうんですよね。インターネットでいくらでも調べられるとはいえ、広告は良いように書くにきまっているし、見知らぬ誰かのレビューを見ると新鮮味が無くなってしまうじゃないですか。だから匂いにつられて食欲を掻き立てられるように、面白い要素を匂わせつつ知的好奇心を刺激する媒体があって欲しいんですけど、世の中なんでも効率化していきますからね。
映画館という場所が少なくなって、Netflix作品がアカデミー賞の対象になるかどうかが話題になる中で、Netflixでは片付ける人が教祖みたいになってるあたり現代っぽいなと思いません?(こんまりの事はよく知りませんが、ゲスの極み乙女。のちゃんまりさんがTwitterで「コポゥ」って言わなくなってる事には気付いてます)
こうやって、大衆性を帯びた一つの価値観に合わせて世の中が染まっていく現代だからこそ、変化と逆転を描く安部公房の作品がよけいに面白く感じるのかもなぁ…。

(おわり)