今回の番組ができるまで
著者の石牟礼道子(1927-)はもともと一介の主婦でした。しかし自らの故郷を襲った惨禍に出会い、やむにやまれない気持ちから水俣病患者からの聞き書きを開始、「苦海浄土」を書き始めます。以来、水俣病患者や彼らにかかわる人々に寄り添い続け、全三部完結まで足かけ四十年以上、原稿用紙にして二千二百枚を越える文章を書き継ぎました。第一部が出版された1969年の日本は高度経済成長の只中。いわば経済発展の犠牲者ともいえる水俣病患者たちは、まだメディアで断片的にしか伝えられることはなく、その全貌はほとんど知られていませんでした。そんな中での「苦海浄土」出版は、経済成長に酔いしれる日本人たちに大きな衝撃を与えたのです。
この書は単に公害病である「水俣病」を告発するだけにとどまりません。「苦海浄土」に描かれた人々の生き方からは、「極限状況にあっても輝きを失わない人間の尊厳」「苦しみや悲しみの底にあってなお朽ちない希望」が浮かび上がってくます。さらには、公害を生んだ近代文明の根底的な批判や、そうした近代の病を無意識裡に支えてきた私たち一人一人の「罪」についても鋭く抉り出します。この本は、単なる公害告発の書ではなく、文明論的な洞察がなされた著作でもあるのです。
できるプロデューサー 秋満吉彦 (@akiman55) on Twitterの放送後記。
初読のときには半分も理解できなかった「苦海浄土」ですが、この歳になって読み返してみて、この本が単に公害を告発するだけの本ではないということに気づかされました。福島で感じたあの「光」の部分、「極限状況にあってもなお輝きを失わない人間の尊厳」「苦しみや悲しみの底にあってなお朽ちない希望」といったものが患者さんの姿を通して確かに描かれている。そして、「苦海浄土」で描かれた構造は今も変わっていないのではないか。大多数の繁栄や安全のために一部の地域が犠牲になり切り捨てられる構造。そして、それが綻んだときに、その事実を隠蔽したり、自分には関係のないこととして無視してしまう構造。この本は、決して私たちから遠く離れたことを描いた本ではない。今も変わらない普遍的なメッセージが間違いなくある。そう痛感したことを今でもありありと思い出します。
そんなこともあって、「100分de名著」でこの本を取り上げるという企画は、ここ1年近く温め続けてきたアイデアでした。存命中の作家の作品を取り上げるのは初めてことで、かなりの冒険ではありましたが、水俣病問題をライフワークとして追い続ける、私が尊敬する先輩・吉崎健ディレクターのさまざまな尽力のおかげで、なんとか放送にこぎつけることができました。
もう一人の恩人は、今回、講師を担当してくださった批評家の若松英輔さんです。「苦海浄土」について語っている論者の人はたくさんいらっしゃいましたが、上述のような、私の中ではまだもやもやしてきちんと形にできていなかった問題意識を、豊かな言葉で言語化してくれる人は他にいませんでした。若松さんの著作「悲しみの秘儀」の中にある「花の供養に」という石牟礼道子さんの文章を紹介した章が、そのことを知るきっかけとなりました。
上記の文章に触れて感銘を受けた私は、内村鑑三「代表的日本人」で講師を担当していただいた直後、まだ番組になるかどうかわからない状況の中で、若松さんに「苦海浄土」についての特別講義をお願いして、2時間弱お話をお聞きしました。実は、今回の番組の骨格は、このときのお話がベースになっています。
〈中略〉
ネット社会の匿名性の中で、「個」を失い、思考を停止して紋切り型のレッテル貼りだけを行い、他者を切り捨て、憎悪の感情のみをひたすら煽り立てるようなことが横行する現代社会。「苦海浄土」は、私自身も陥りがちなこうした「群れることの罠」を厳しく警告しています。石牟礼さんの厳しい言葉を心に刻み、私も、決して群れることなく、さまざま問題に対して「個」として立ち向かっていきたいと心から思っています。
感想
私が水俣病を知ったのは小学校の社会の授業で四大公害病を扱ったときでした。
「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」「水俣病」「新潟水俣病」
私はことごとく「俣」の天を夫にしてしまいテストで必ず間違えてました。教科書でさかれていたページ数は少なかったと思いますが、患者さんのモノクロ写真に底知れぬ恐怖を覚えています。
「子どもだったからそうなのか?」と考えてみると、おそらく大人でもできるなら目を逸らしたかったのではないかと思います。日本の歴史の授業では直接的な影響がある近代史よりも、SFチックな古代が優先されます。結果的に目を逸らすカリキュラムになっている。
今回の特集は学校で分からなかった『なぜ怖いのか?』を理解できました。
これは、第一回目の放送で若松先生が苦海浄土との出逢いを話したときに言っていたことなのですが、「古本屋の軒先にあった安売りのコーナーでたまたまこの本に出逢い、部屋に帰って読んでみると自分の人生が変わってしまうことが恐ろしかった。ここに書かれているのは命の問題と生きる意味。告発だけではなく一番大事なところは別にあり、主人公は言葉を失った人々であることが大きい。その言葉にならない想いを石牟礼道子さんがすくい上げた」と説明されています。
苦海浄土の特徴は「悲劇」のもつ二面性だと思います。
悲劇が起きると盲目であった私たちの視野は一気に広がって、無意識の中にも飛び込んできた情報でブレイクスルーが起こるんですよね。
それは関係性の密度の変化でもあって『自分は関係ない』という態度が取れなくなる。というか、本来あったはずの関係性に戻されるのだと思います。
それは罪悪感を正視できるかどうかの試練… いや、責任を試される。
だから、目を逸らしたいほどの恐怖があるのだと理解しました。
第一回と第四回より〜
(高度経済成長を迎えた日本。チッソ株式会社は有機水銀の含まれる廃水を不知火海へ流し続けたーー)
「ゆき女きき書き」(ゆきさんから聞いて書いたという意味)
坂上ゆき(三十七号患者)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。
真新しい水俣病特別病棟の二回廊下は、かげろうのもえたつ初夏の光線を透かしているにもかかわらず、
まるで生ぐさい匂いを発しているほら穴のようであった。
それは人びとのあげるあの形容しがたい「おめき声」のせいかもしれなかった。(背景では「おめき声」の表現としてチェロの音が挿入されていました)
(激しい痙攣により水を飲むこともままなりません)
嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。
うちゃだんだん自分の体が世の中から、離れてゆきよるようなきがするとばい。
海の上はほんによかった。
じいちゃんが艫艪(ともろ)ば漕いで、うちが艫艪ば漕いで。
いまごろはいつもイカ籠やタコ壺やら揚げに行きよった。
ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい
四月から十月にかけて、シシ島の沖は凪でなあーー。
(言葉を詰まらせる伊集院さん)
ゆきさんは感覚がなくなって、奇病として隔離されます。被害者の方々が世の中から引き離されていくその現場に現れたのが石牟礼道子さんでした。
石牟礼さんはこの空間と「世の中」を以下のように書き記しました。
安らかに眠って下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。
このときこの人の死につつあったまなざしは、まさに魂魄(こんぱく)この世にとどまり、けっして安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。
この日はことに自分が人間であることにわたしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。
この人のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、けっして往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。
うわべだけの言葉は何の意味をなさず、あるとすればこの惨劇から目を逸らしたい人間が使う言葉なのだと感じます。
石牟礼さんは、世の中から引き離されていく人々を自分の中に住まわせて記録したんですね。
『聞き書きなのか、それとも創作なのか』という疑問について。若松先生が石牟礼さんに直接尋ねたところ「詩のつもりで書いています」と仰ったそうです。
もともと詩を書いていた延長線上にあって、新しい表現としてこのような形式に至ったそうです。
何というか、マザーテレサのような深い慈愛と卑弥呼のような憑依を保った人なんだなぁという印象を受けました。
現代では映像を元に口角の動きなどから発音を復元する「読唇術」がありますが、石牟礼さんの場合は「唇」ではなく「心」と書いて「読心術」だと思います。
人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。
うちゃやっぱり、ほかのもんに生まれ替わらず、人間に生まれ替わってきたがよ。
うちゃもういっぺん、じいちゃんと舟で海にゆこうごたる。
うちがワキ櫓ば漕いで、じいちゃんがトモ櫓ば漕いで、二丁櫓で。
漁師の娘御になって天草に渡ってきたんじゃもん。
うちゃぼんのうの深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。
若松先生がここで用いられるぼんのうは「情愛」とイコールであると説明されました。
きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。
それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に
(縛られていたきよ子さんは全身を引きずりながら縁側から外に出て、散った桜の花びらに触れました)
何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。
それであなたにお願いですが、文ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。
いや、世間の方々に。
桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。
花の供養に。
「花の文を」のパートが胸に詰まって仕方ないです。
例えば意地悪な人が『創作じゃねーか』と言ったとしても、このパートはきよ子さんのお母さんが石牟礼さんに「手紙を書いてくれませんか」とお願いしてるので、言葉が適切かどうかは分かりませんが、死化粧/詩に化粧してると思うのです。
しかも宛先は被害者の方々が引き離された「世間」です。お母さんは世間に所属していますから、「何も恨まなかったあの子の言葉を私たちの世界に教えて下さい」だと思うんです。桜の花びらを拾うということは行動様式ではなく、心的理解という意味で。
この第一回目は差別や偏見や隔離などの扱いを受けても人間であろうとした人々がいて、あなたは人間です。伝えます。とバトンリレーしたような、終わりと始まりが同居する強い想いを感じました。
第四回に続きます。
おとなのいのち十万円
こどものいのち三万円
死者のいのちは三十万と、わたくしはそれから念仏にかえてとなえつづける。
遺族会はチッソや行政に対して抗議活動や裁判を行う中で、活動費用の問題に悩まされました。
補償費用を貰うことは「以後、異議申し立てをしない」という意味にもなりますから(補償制度が加害者の目線から決められている時点でおかしいですよね)、分断にも繋がります。
「被害者が番号で呼ばれること。この番組でも扱った夜と霧に書かれていたナチスのホロコーストがそうでした」
若松先生のこの言葉も印象的で耳に残っています。
「私は、チッソというのはもう一人の自分ではなかったかと思っています」
そんな中、第四回のゲストである緒方正人さんは遺族会を抜けてたった一人で抗議活動を開始しました。
この時の判断について「もし自分がチッソの労働者や重役だったらどうしただろう。人間の一人として私も問われているのではないか」と考えたそうです。
補償金の概念は人間世界のみでしか通じず、人間という加害者と自然という被害者で考えた時には意味がないと気付いた結果だそうです。
「人間中心の倫理観、世界観だけでは水俣病は解決がつきません」と若松先生も意見されていました。
伊集院さんが「お一人でどのようなことをされていたのですか?」と質問すると、緒方さんは「生活です」と答えました。
チッソの門前で座り込みをしている時は、芸人さんと同じような心持ちで、どうぞ笑って下さいと思いながら七輪で魚を焼いて食べたりしていたそうです。
最初に来てくれたのは猫で、一緒に魚を食べたあとは1時間ぐらい座り込んでいたそうです。
猫の多くのも水銀中毒で命を落としていますから感慨深いものがありますね。
チッソ側も団体ではなく個人が行っている静かな抗議活動を強制排除することはできなかったということです。
有機水銀はプラスチックを生産する過程で発生していました。緒方さんはプラスチックの舟だと癪にさわるということで、わざわざ大工さんに木の舟を作ってもらい、その舟を漕いで抗議活動に向かったそうです。
その活動を目にした石牟礼さんは共感して筆をとり「常世の舟」と名前を書いたといいます。
石牟礼道子さんはどんな人ですか?と訊かれた緒方さんは古層の現れと形容しました。もともと、近代の価値観よりも自然との結びつきが強い地域だったのでということも仰っていました。
企業というのは個人の経済的自由権の延長線上にあるわけですが、そこから口にされる「社会の繁栄」はエゴイズムの拡大であって、多文化共生社会というものは置き去りにされます。
私が「economic」の語源がOIKOS「家計」とNOMS「社会的道徳」であると知ったのは坂口恭平さんの影響でした。
311が起きた後誰もが言葉を失う中で、とにかく言葉を残していたのが坂口恭平さんで屁理屈を躁鬱でぶっちぎっていくエネルギーにとにかく驚きました。
https://mobile.twitter.com/zhtsss/status/143558009027698688
今回の特集で石牟礼道子さんの名前を見た時に「あっ、坂口恭平さんの隣にいたお婆ちゃんだ!」と思ったのが正直なところです。
第四回まで見終わって理解が深まると、この二人が肩を並べていることに感動しますね。
話を元に戻しますね。
現地の言葉で天からもたらされる「恵み」と「災厄」を「のさり」と呼び、海から獲れる魚も、ばら撒かれた毒物も「のさり」として人々は理解したそうです。
番組の途中では、賠償金は要らないから水銀を飲んでもらって、被害者と同じだけの死者と患者を用意して欲しいという「怨念」が紹介されたのですが、終盤で遺族の方と被害者の方の中で「許す」という感情が生まれたというのを聞いて、不知火海の深い自然によって人々の理性が養われたのだと感じました。
この理性はその土地の風土から吸収しないと理解できないと思いますが、きよ子さんが恨みの言葉を言わなかったように、人々は汚染された海を恨んだり、生体濃縮した魚を恨むことはしなかったそうです。
宗教団体は水俣病患者を救ってくれなかったという話が出たのですが、不知火海近辺に住む人々は自然崇拝の原風景を心得ていると思うのです。
坂上ゆきさんが口にした「生まれ変わってもーー」という言葉は上辺で使えば、くすぐったくてキザでしかありませんが本心だから躊躇せず口にできると思うのです。
こうした強い繋がりがあれば、政府によってしばしば行われる分断政策にも負けないのかもしれません。
「荘厳されているような気持ちでございました」
これは身体を壊しながら書き上げた石牟礼道子さんの言葉として紹介されました。
番組の最後、伊集院さんは長年テレビの仕事をしてるけど第一回目の一文を聞いて初めて収録中に涙が出そうになったこと、日常のふとした瞬間に頭に浮かんできたこと、今までのどの名著よりも力が必要だったと語って終了しました。
おわりに
「本当に見てよかったなぁ」と思いました。
出演されている伊集院さん、磯野アナ、若松先生、緒方正人さん、語りを担当された山根基世さん、朗読を担当された夏川結衣さん。アニメーションを担当された川口恵理さん、スタッフの皆さん。
全員がこの世から姿を消した命に対して、畏敬の念をもって制作していたのではと思う特集でした。
私は絵に興味があって、今回のアニメーションはすごいなぁと感じました。
調べてみると川口さんは無印良品や絵本など、優しいタッチの作風を活かした作品を残されていました。そういう意味で今回の仕事はかなりのチャレンジだったのではと思います。
アニメーションは色鉛筆の世界がほどけていくイメージで、心象風景の再現や負の感情の緩和など様々な場面で内容を引き立てていたように思います。
とくに私は、きよ子さんが落ちた桜の花びらに触れシーンで、伸ばしたその手の小指がよじれているのが切なくて仕方ないんですよ。生気の感じられない意思のある目を描くこともかなりテクニカルな表現を必要とします。
第二回と第三回でも素晴らしい表現がされているのでぜひ見て欲しいと思います。
水俣病、救済地域外でも似た症状 1万人検診記録を分析 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
水俣病被害者の救済対象地域から外れた熊本県天草地方や鹿児島県内陸部で暮らした人々に、対象地域の人々と酷似した症状が出ている。民間医師団の検診記録1万人分を、医師団と朝日新聞が共同で分析し、明らかになった。水俣病の公式確認から今年で60年。政府の線引きが実態に合わず、今も被害者が取り残されている可能性が高い。
政府は救済対象を、熊本県、鹿児島県に面する不知火(しらぬい)海へのチッソの水銀排出が止まった翌年の1969年11月までに生まれ、認定患者が多発した地域に1年以上住んだ人に原則として限定。2012年7月に申請を締め切った。
医師団は、04年11月~今年3月に水俣病の検診を受けた1万人余の記録を分析。感覚障害などの症状28項目、水俣病に特徴的な手足のしびれなどの自覚症状37項目の現れ方を調べた。
熊本、鹿児島両県を中心とした1万人余のうち居住歴が確認できた3千人余について、救済対象地域に1年以上居住歴がある1854人と、居住歴なし(1年未満も含む)の1619人を比べると、症状の現れ方はほぼ同じだった。
これは10月3日の記事です。
鹿児島で水俣病と類似する症状が見落とされていた可能性が浮上したそうです。
60年経って社会は無自覚に戻りつつあるのかもしれませんが、有機水銀とは別にマイクロビーズなどの公害も存在しています。
不自然にしか生きられない誰もが関係ないとは言えません。
東電原発事故で学んだのは、加害企業と政治献金をもらったり株を所持している政治家はいかに事故を小さく見せ、補償を早くうちきるかを考える生き物だということ。
そして、学問は全ての弱者のために存在する武器であるということ。
もし、誰しもが一人で戦わなければならないときが来るとしたら「苦海浄土」は、暗い海の底から多くの人に希望の光を届けると思います。